やらせるからダメなのだが

かつて我が国には「一億総中流」と呼ばれる時代がありました。

これ、貧富の差が少なく、多くが特別豊かではないが、貧困でもない、という状態だったのです。
それが長いこと当たり前だったわけですが、世界的に見たらとても珍しい状態だったのですね。

そういう状態を支えていたのは、大きく二つの原因があると思っています。

一つは、高度経済成長のベースとなっていた、大量生産体制。
向上で安価で高品質な製品を大量に生産していた。

そしてもう一つは、そのための一定の知識やスキルを持った人材が大量に必要になるわけで、そういったニーズを満たすための教育システムの確立。

そんな状態が長いこと続いてきたのだけど、このやり方は人件費が安くて人口が多いのであれば成立するけど、それらのいずれか一方が維持できなければ継続は難しくなる。

で、人件費が上昇し、人口が減少した現在に至る。

もちろん低コストで大量生産のビジネスモデルはとうに成立しなくなっているのだけど、教育システムの基本形は変化せず。

言われた頃をやるという機械的な能力の重視と、考えることよりも記憶力をベースとした教育という形は変わっていません。

このシステムのトレードオフとして、尖ったヤツが少なくなるということなのですが、だからこそ貧富の差がない、均質的な社会が実現する。

興味深いのは、一億総中流であった頃よりも、むしろ今の方が人は均質化しているような気もすること。
まぁ、教育システムが同じ形で続いているならそうなるのは当然か。

問題は、この先どうしていくべきなのか。
社会の形は変わろうとしている。(すでに変わっている)
教育は未来の社会のためにあるのに、旧来の形のまま。
その形を保てば、かつての一億総中流に戻れるわけでもない。
なので、このままで良いはずは無い。

とはいえ、均質化から脱却して、個性や自発性を重視した自律的な教育に変えていくとどうなるか?

やはり二極化するのかな。
するのかもなぁ。
でも、それ以外の方法があるのだろうか?

その辺を考えるのは恐ろしくも難しくもあるのだけど、きっと避けては通れない道。
何か良い方法があるはずだ。

とか考えていると、やはり新しい時代がやってくるのは必然なのだろうな、と思うのです。
どうせなら、面白くしていかねばなりませんね。

オタクの話

↑ChatGPTが想像するオタクの姿。へー。

最近ではあまり聞かなくなりましたね。
「オタク」というワード。

かつては強烈なアニメファンを指すワードとして、そこから様々なマニアを指す際にも使われてきました。

ただ、単なるマニアでは無く、一般的なというか、常識的な一線を越えたようなマニアっぷりを持つ人を指す場合が多いのではないかな。

「プロフェッショナル」は、その働きが多くに向けられる場合が多いですが、「オタク」は、価値観を共有できる少数が価値を発信する対象でしょう。

正直なところを言わせてもらうと、私はオタク的な気性を持つ人は嫌いではありません。
というか、むしろある種のリスペクトすら感じます。

それはなぜか?

彼らは常識的な一線を軽々越えてしまうパワーを持ち合わせているからです。
というか、人の目を気にしていない?
そんなことはないだろうけど、閾値のレベルが一般的じゃないのかな。

そもそもレースをやってるとか、かなりオタクっぽいんじゃないかと思うこともあります。
一般人の持つ価値観とはかけ離れた感性とか価値観とか、変な拘りとかを持っているのは間違いないでしょう。

もちろん他の分野でも、そういった気質を持っている人はいるでしょう。
そんな彼らに共通するのは、自分の好きなことのために、普通の人が捨てられない何かを軽々捨ててしまう潔さではないでしょうか。

それ、うまくいくためには必須だと思うのです。
何のために、それをどの程度の高いレベルまで高めるか。
ブチ抜けて極みに達すれば、「凄い人」と呼ばれるようになるのでしょうね。
ま、そんなものでしょう。

新しい時代は混乱とともにやってくる

何やら世界的に混乱の予感がしてきましたね。
ただ、そういったことは今に始まったものではなく、周期的に発生するもののようです。
過去にも恐慌やら戦争やらはあったわけで。

ただ、そんな中にも気付きや学びはあります。

フェイクな情報や脅迫は、ディールのための武器になる
それは昔からあったことだし、事の大小の違いはあれど実は日常にも潜んでいることです。
カオスな国のお土産屋さんなんて、そんなのが日常だったりもしますしね。

ただ、それを国家間でやるとかなり困ったことになるのですね。
いやぁ、勉強になります。

正しいものではなく、強いものが正義
実はそれはずっと昔からそうだったのですけどね。
戦争なんて善悪の問題ではなく、勝った者が正義となるわけで。

でもそれが世界標準になってくると、昔からあったことでは済まされません。

今回言いたいのは、そういった混沌としたバトルの価値観に合わせていこうぜ!ということではなく、そんな中で我々はどう振る舞うべきなのかというのを考える機会が来たのではないだろうか?ということなのですよ。

以前、「余裕」について記事にしましたけど、こういった混沌とした状況になる理由は、やはり余裕が無くなってきたからなのでしょうね。

そういった一見厄介な状態が物事の見方を変えて、大きな価値の転換点となるのかもしれません。
かつての混沌とした時代で何が起きたかというと、革命やら改革です。
要は、大きく変わる前段階として混沌の時代があるということです。

民主主義だって、資本主義だって、人類誕生より前にあったものではなく、後に作り出されて、徐々に形が変化してきたわけで、もちろん今後も変わったり消えてなくなったりする可能性はあるわけで。
ひょっとしたら新しい形の文化が生まれる前段階がやってきたのかもしれません。

どうしようも無い行き詰まった状態になれば、変革を嫌う人だって変わらざるを得ません。

この状態の明るい面を見るなら、これから理想的な状態へ移行するサインみたいなものと捉えても良いのかもしれませんね。

で、どうしましょうか?
混沌の中で、我々が目指すべきゴールは何か?

混乱に乗じて一儲け…
ではありません。
そんなことをするから混乱するのです。

こんな時こそ道徳だと思います。
「得」じゃなくて「徳」です。

徳があるところに本当の価値がある。
もちろん金銭の問題ではなく、それを超えた価値です。

時代は巡るわけで、きっとこの状態は我らの先人がかつて通った道。
その時彼らはどうしていたのか?
そんなことを振り返ってみるのも良いかもしれませんね。