之を楽しむ者に如かず ですよ

論語にこんなのがあります。

之を知る者は、之を好む者に如かず
之を好む者は、之を楽しむ者に如かず

知っていることは、好むことには及ばない。
好むことは、楽しむことには及ばない。
という意味です。

そりゃそうだよなぁ
と思いますが
これ、実践されてませんよね。

日本に論語が入ってきたのは1700年くらい前。
論語が書籍として普及したのは600年以上前です。

なので、こういったことは
かなり以前からこういうことを知っていたはずなんですね。
でも、真に受けて実践していたかは別ですかね。

大学の研究者は好きなことを研究しているので
概ねこんな感じになっているかなと思います。

学生はどうかな?

うーん
どうもそうはなっていないように見えますね。

まぁ最近は
親が大学に行けって言うから
みんな行くから
という理由で進学する傾向が多いので
特にやりたいことが無いとか
という学生も増えていると思います。

とはいえ
色々話していくと
何かしらやりたいことがあったりするんですけどね。
色んな理由でそれを押さえ込んでいたりすることが多いです。

何でもいいからやればいいのにね。

「勉強」というと
本当はやりたくもないけど我慢してやらなければならない
みたいな風潮がありませんか?

義務教育なんかは
最低限知っておかないといけないことが中心ですから
四の五の言わんで憶えとけ
みたいな部分があっても仕方ないのかもしれませんが。

あ、勘違いして欲しくないのは
難しいことなんて学ぶ必要ない
と言いたいわけではないのです。

学ぶにしても、もっと良い方法があるんじゃないかな?
そのための努力や工夫がされているのかな?
ということなのです。

学ぶべき内容は
それなりに難しいことなので
必要性を感じられないまま
「これを覚えろ」
「これをできるようになれ」
ではなく

ワクワクしながら
いろいろ挑戦して
必要性が実感できるような授業に変えていけたら良いな
と思っています。

あ、そうか!
チャレンジが無いんだな。
なるほどなるほど。

今は少しずつ試しているのですが
そのうちレーシングカーを作っている連中が
自主的に新しいことを学んでいるような
そんな仕組みの授業ができたら
大学ももっと楽しくなると思います。

うまく工夫しないと
授業にした途端に楽しくなくなる
なんてことも起こりえるんですけどね。

その辺はこれから色々試してみましょう。

我、真理を得たり ちょっとだけ

以前から心掛けていることがあります。

動機善なりや 私心なかりしか

これは京セラ創業者の稲盛和夫さんが
KDDI(当時は第二電電)を創業する時に
自身に問いかけておられた言葉です。
有名ですね。

この言葉を知った時
当時は完全に飲み込めなかったものの
何かピンとくるものがあったので
自分の行動指針としてノートに書き留めて
ことある度にに見るようにしていました。

それから何年が経って
ここ数年で、やっと腹落ちしてきました。

私の望みは
学生の夢が叶うこと
ではありますが
それはごく一部です。

一番重要なことは
将来彼らが世の中の役に立ってくれることです。
それを彼らの得意なことや
好きなことで実現してくれれば嬉しいし
それが一番うまくいく方法なのだと思っています。

では、今回の核心です。

人は色んな希望を持っています。
いわゆる夢の実現、自己実現などもありますが

自身の安定した楽な生活のために
仕事が欲しい!
お金が欲しい!

こういう動機は自分のためでしかない
利己的なものなわけで
これが我欲であり私心です。

今や…というか昔から
それが当たり前なのかもしれません。
偉そうにこんなことを書いている私も
大学生の頃はそんなものでした。

でもこの私心が
うまくいかない根源だ
ということに気付いている人は少ないと思います。

「食うために仕事をしている」
という動機は別に珍しいことではありません。
良く聞きますよね。

でも仕事には必ず相手がいて
相手のためにやるからこそ対価がもらえるわけでしょう?

対価を払うとき、我欲に基づいて仕方なくやっている人と
本当に相手(お客さん)のことを考えてやっている人の
どちらに気持ちよく払えますか?

あなたは
「俺が食うために必要だから、これ買ってくれ」
と言われてお金を払いたいですか?

なんて聞くだけ愚かですね。

そんなの分かっているけど
きれい事言ってもどうにもならない?
自分だけは利己的な考えでもお金がもらえると?
本当なんですか、それ。

チャンスもお金も、相手に渡すには理由が必要です。
厳密には、理屈ではなく感情の問題だと思いますが。

自分のことばかり考えている人間に
周囲が同意して力を貸す気になれるか?
チャンスをあげる気になれるか?

なれるはずはないですね。
なれるとしたら
それは取引上とか職務上の理由だったりして
本心から同意して動いているわけではない。

なので
他の利のために仕事をすべきなのですね。

それを
自分の好きなこと
自分の得意なことで提供できたら最高です。

これは
会社の仲間との関係でも同様でしょうね。

皆が利己的な心で動いているとしたら
それに同意できる者はいないはずなので
あらゆることがうまくいかなくなるはず。
当然ながら
そんな人間が集まった社会はうまくいかなくなります。

そして
そもそも利己的なことのために
全力を尽くせるのかというと
もちろんそんなことはないわけで
そういうものって
短期的で小さな成果になること多くて
困難に遭遇すると
簡単に諦めたり変えたりできます。
結果、うまくいかないことが多い。

でも
利他的な心で動けば
同意してくれる人は多いでしょうし
多くの人が力を貸してくれるはず。

皆が喜んでくれることなら
必要としてくれる人も多いでしょうし
やり甲斐も感じられるでしょう。
もちろん、そう簡単に諦めたりはできません。
最終的にはうまくいったり
色々と得られるものが多くなる。

もちろん
得たものは溜め込むのではなく
次に回すんですよ。

言うは易しで
できるかどうか
どこまでできるかは
やってみないと分かりません。
なので可能な限りやるべきでしょう。

やってみないと分からないならやらない
とか
分かっていることしかやらない
などという選択肢は無い!

技術は人なり

時代が変わっても変わらないもの

この後の世界がどのような変貌を遂げるのか

大変興味深いテーマで
多くの人が色々想像していると思います。

皆さんはどう思います?

化石燃料をはじめとする様々な資源の枯渇や
地球温暖化にともなう環境の変化など

何がどのくらい深刻で
どの程度信憑性があるのか

まぁ事実関係は重要だと思いますが
何より重要なのは人間の心です。

というのも、事実がどうであれ
我々が思っていることや感じていることで行動が決まり
それによって人の世は変わっていくからです。

世の中は、どんどん便利で快適な方向に変化してきました。
特に先進国では著しい変化ですね。

子供の頃は
未来の世界では車が空を飛んでいて
もっと便利で楽チンで快適な世界になると思っていましたが
いざ時が経つと
車は飛ばないまでも
色々と便利で楽チンで快適な世界になったものの
コミュニケーションの途絶とか環境とか貧困とか
グローバルな社会になったなりの問題とか
意外と色々問題は消えないもんだなぁ
なんて思ってしまいますけどね。
まぁ、問題が無くなることなんてないですよね。

それはそれとして
いわゆる製品の進歩たるや
これは凄いものがあります。

私の専門領域の自動車ですが
これは凄いですよ。

私が生まれてしばらくしてから
それまでスーパーカブに乗っていた父が
スバル360を手に入れました。
スバルが多くの国民が入手できるようにと開発した
小さな2ストロークの車です。
その頃は
どこの家にも車があるなんて事はありませんでした。

当時の父は刑事をしていて
給料で借家の家賃も払えなかったらしいのですが
一体どうやって手に入れたのでしょう。
まぁ、それはどうでもいいのですが。
今や車がある家なんて珍しくもありません。

私が幼少の頃は
山道では大抵何台かの車がオーバーヒートして
ボンネットを開けて停まってましたね。
当時の車の性能はそんなものでした。

昔は
「ねんおしゃちえぶくとうばしめ」
と言って
乗車前点検を推奨していました。

ねん 燃料
お オイル
しゃ 車輪
ち チェーン
え エンジン
ぶ ブレーキ
く クラッチ
とう 灯火類
ば バッテリー
しめ 各部の締め付け

チェーンが入っているので
これはバイクが対象だったんだなぁ
なんて今頃気付いたりしてるんですが
今時こんなの毎回点検している人いないでしょう。

車に乗っている人だって
タイヤ交換できなかったり
ヘタするとジャッキアップしたことないとか
オイルレベルのチェックしたことないとか
そんな人もいるんじゃないでしょうか。

そんな風に
過去は常識だったことが次々に変化してきました。

私が子供の頃なんて
夜6時か7時を過ぎると
買い物なんてできませんでしたからね。

一カ所に人口が集中する都市化も進んで
大都市はもちろん近郊の都市も凄い発展を遂げています。

一方、地方都市は過疎化が進んで
限界集落なんて言葉も生まれました。

もっとも夜中や休日に自由に買い物や食事ができるというのは
先進国でも当たり前ではなく
日本がずば抜けて持つ利便性だと思います。
都市の規模で言っても、東京がダントツの巨大都市ですけどね。
こんなにどこまで行っても都市部が続いている国は他に無いと思います。

今や一般人でもかなり自由に
あっという間に外国に行けますし
行かないまでも
自由に情報の入手やコミュニケーションができます。
マサイ族も携帯持ってるご時世です。

それはそうと
ここまでこのような形で発展してきて
その後はどうなるのでしょう?
果てしなく人が集まり続けて、無制限に大規模化する
なんてことはありえないでしょう。

その後はどうなるかが大変興味深いところです。
分散してグリッド化?
一極集中の終焉?

冒頭に書いたように
これからの変化は人の心が決めると思っているのですが
これから人は何を欲するのか
それによって変化の方向性が決まるのでしょうね。

それはもちろん
今持っているものを持ち続けたい
という気持ちと
今持っていないものを求める
という気持ちのせめぎ合いがあったり

今まで進んできた過程で失ったものを取り返したい
という気持ちだったり

今までの人の歴史を見ると
滅ばなかった文明は無いわけで…

いや、日本だけは滅んでないですね。
大きく形は変わっていますが。

ともかく
グローバル化した現代では
世界中が一蓮托生の状態ですので
どうなることやらお楽しみ。

でも、いつの世も鍵になるのは
パッションを持った人達です。

これは時代が変わっても同じでしょう。
縄文土器を見てください。
あんなのパッションなかったら作れませんよ。