反抗期が無いたって無くなっちゃうわけではないのでは?

最近の若者は、反抗期が無い
なんて聞きます。
皆ではないでしょうけど。

これ、人の寿命が伸びて
労働寿命が延びて
それに伴って
教育機関が伸びて
という現状を考えれば
まんざら不思議でもないのかな?
なんてことを考えていました。

全く関係ないかもしれませんけどね。

こんなふうに
寿命が延びるのに伴って
人生のイベントも延びていけば
反抗期も先送りになるのかな
なんてね。

なので、無くなっちゃうわけではなくて
今までは10代で経験していたものを
20代で発現するようになってたりして。

でも、20代だと
社会での立ち位置が
ボチボチ固まりはじめているので
10代の反抗期みたいにはできなくて
代わりに何かが起きているのかな。
それで会社辞めちゃうのか?
どうなのだろう?

その辺は良く分かりませんが
もしそういうことなら

反抗期によって形成される
とされる様々なものも先送りになっている
ってこと?

反抗期って
理想と現実のギャップに苦しんだり
依存から独立への変化を求めたり
色んな希望とか不安に挟まれて
それによって
自分自身を構築していく時期ですよね。

そういうのが
先送りにされちゃってるのでしょうか。

とか考えると
何となく納得出来てしまう気がします。

夢工房での活動をやっていると
理想やら現実やらに揉まれまくって
チームでの人間関係に悩んで
自分を構築していくのが日常です。

なので
反抗期がどうとか
というのは興味深いのですが
まぁ何とかなってるかな
というのが実感です。

各人、良い感じに成長しているな
というのが日々実感出来ますから。

ただし
やはり反抗期のような経験があって
アイデンティティが確立されていたほうが
その後の成長は早いのだろうとは思います。

大学は
一般的には学問するところ
とされていますが
今はそれだけじゃ全然足りなくて
アイデンティティの形成も含めて
やっていかないとダメなんだろうな
でも、それも面白いかもな
なんて考えていました。

そういうのを悲観して
何かのせいにして文句言っても
なーんにも良くなりませんから。

今日も卒業生と話ができました。
皆、元気で頑張っているなぁ。
良かった良かった。

究極の選択になっちゃう理由

でっかいチャレンジをしていると
考えること
やることが
一々ヘビーなことだったりすることがあります。

特に初期段階の戦略を考えているときとか
マシン全体の企画を考えているときとか
他にも色々ありますが

当然、決断を躊躇して
考え込んでしまうシーンも出てきます。

こういう時って
考えようと思ったら
いつまでも考えられたりするのです。

だって正解は無いですから。

特に学生の場合
失敗しないように
よーく考えて一発で正解を出したい
なんて思うことがある
というか
ついつい無意識で
そういうやり方をしちゃうケースが多い。

もちろん、そんなことをすると
決断が遅れるのですが…

決断を遅らせると何が起きるか

最終的には
いわゆる
究極の選択
をするしかなくなります。

しかも一番嫌なときに
です。

究極の選択とは
一番取りたくない選択肢
しか残っていない状況です。

誰しも間違えたくないし
失敗もしたくないだろうし
面倒なことはやりたくない
それらを避けるために
一所懸命考えることに時間を使って
または考えずに
決断や行動を先延ばしにしても
「締め切り」は変わらないので
結果としてトライするための時間が無くなります。

そんな風に
トライする時間が無くなってしまったら
一発で決めるしかないので
ますます真剣に考えて
ますます時間が無くなって

もうどうしようもないところで
究極の選択をせざるを得なくなる

本当は
どうせ正解なんて無いのだから
早く考えてやってみて
その結果をリファインしていく
というやり方自体が
正解と言えば正解なのですが

それって簡単に言うと
早くやって早く失敗する
ということです。

なので、失敗を避けることが
第一優先になっていた場合
非常に取りにくい選択です。

だいたい、小さい頃からそれをやったら
ダメなやり方だと
怒られてきたわけで
いまさらそこに戻れるのかというのが大問題。

でも、良いもの作るにはそれしかない。

これ、学生のうちに
やっておかなければいけないことの一つです。
なかなか機会はありませんが。

やはりキーワードは「勇気」と「スピード」かな。
前提としては「ビジョンの明確化」ですね。

失敗を避けるためにやっちゃダメなのかって?

ダメですね。

だって、失敗しないことが成功じゃないから。

卵が先か鶏が先か 自信の話

何かにチャレンジするときに
自信が無いからできない
と思ったりすることがあります。

まず最初に言っておきたいのは
ここで言う「自信」とは
自分を信じる
ということです。
自尊心(プライド)とはちょっと違います。

チャレンジに際して
自信が無い
とは
自分ができるとは信じられない
ということです。

信じられないことはできるはずないですね。

言いたいことは分かります。

「だって、やったことないから」
「だって、できたことないから」
だから自信が無い

でもこれ、ちょっと変なんです。

やったことがないこと
とか
できたことがないことは
できると思えない?

できるためには
「自分ならできる」
と信じる必要がある。

けど、やったことがないから
そうは思えない。

そう思えないのだから
きっとできないでしょうね。

はい
分かってます。

「できるかどうか分からないこと」を
やりたくないので
「できない」に分類して
やらなくて済むようにしているのですね。
よくあることです。

では、やらなくて済むことによって
誰がどんな得をしているのかな?

労力を払わなくて済んで
楽が出来て良かった?
失敗しなくて済んだ?

でも、それによって
自分の価値も向上しないし
周囲の人も喜ばないですね。

チャレンジするには
やったことがなくても
「自分ならできる」
「何かあっても、自分なら対処できる」
と、自分を信じる必要があります。

これ、「うぬぼれ」のようなものではなく
どちらかというと「決意」のようなものかもしれません。
「腹を決める」ということですね。
それほどヘビーな感覚でなくても良いかもしれませんが。

まぁ別に
うぬぼれてても良いのですけどね。
やっちゃえば得られるものがありますから。

チャレンジは
未来の自分への投資です。

やった途端に何かが得られることもありますが
本当の成果は未来に現れます。

「やらない」という選択は
未来の自分への投資にはなりません。
何も起きません。
そのための「やらない」ですから。

「自信」と「できる」は
卵と鶏の関係です。

すでにできることなら
すでに自信を持っているでしょうけど

自信を持たないと
やったことがないことは
できるようにはなりません。

やらなければできないのは当然なので
そのままにしていたら
一生自分を信じられなくて
ずっとできないまま。

自信が無くてもやる
その選択によって
できて自信が付いた
という経験が得られるかもしれませんし
得られなくても
チャレンジする勇気は確実に身に付いていきます。

ちなみに
卵を割らずにオムレツはできない
のです。

おいしいオムレツかどうかは
卵を割って作って
食べてみないと分かりませんよ。