戦争から学ぶ 戦略的思考の構造の続き

前回は飛行機を例にとりました。
しかも、その機能とか装備に限定した話です。

機能や装備を含んだ飛行機そのものが、一つの具体的な「技術」とすれば、それをさらに大きな枠でとらえることができます。

「技術」の一つ上の階層が「戦術」です。
飛行機に搭載した兵器でドッグファイトするなんていうのは「戦術」でしょう。
飛行機や搭載する兵器は、その戦術に必要で、そのために開発されます。

「戦術」から上の階層は、「作戦」、「戦略」となっていきます。
その階層では、もう飛行機単体の話ではなく、もっと大きな組織的な話になります。

さらに上にあるのは、「政策」で、この階層では、そもそも戦争をすべきか否か、やるとしたら、どういった戦い方にするか、「情報」とか「経済」で蹴りを付けるか、実際に戦闘すべきかという判断を含みます。

さらに上位にあるのは…
自国をどうしたいとか、他国との関係をこうしたい、というビジョンでしょう。

昔々の原始時代は、それこそ腹が立てば殴るとか噛みつくとか、そういう直感的で短絡的な行動だったのでしょうけど、時代を経て、戦いも高度化していきます。

というか、戦争を例に挙げるとこのような、おどろおどろしい話になってしまうのですが、基本的なロジックは単純です。

願いを実現するための考え方
なのです。

戦争は、趣味とか道楽ではありません。
命がかかっているので、できればやりたくない。
正常な人なら誰だって死にたくはないし、殺したくもない。

しかし、どうしても回避できない場合
勝ちたいとか、負けたくないとか願うわけで、それを実現するための一般的な考え方が、今回お話しした階層状の思考です。

でも、今回の話、本来考えるべき方向と逆にお話ししたのがお分かりでしょうか。

具体的な兵器を作るから戦争になるのではありません。
戦争に必要だから兵器を作るのです。
…基本的には。

世の製品も同様です。
「こんなのがあったらいいな」と、製品が果たす役割を考えておき、そのために作るのです。

学校などでは、理解の都合上、基礎と称して具体的な細かいことからやっていきます。
しかし、実社会では逆です。

そもそも最初にあるのは、最終的なビジョンです。
結局どうしたいの?ということです。
最初なのに最終というのはややこしいですが。

想像力って大事なのです。
でも、想像力をどう使うかは自由です。

素晴らしいことにも使えるし
恐ろしいことにも使えます。

そもそも素晴らしいとか恐ろしいなんて、時代によっても違うでしょうし、価値観によって様々でしょうけど。

だからといって、想像しなければどうなるか?

それはそれで恐ろしいことなのかもしれません。

戦略的思考…について考える

「戦略的思考」というと、何やら難しそうですが、実はそうでもありません。

「何のために、どうするの?」
ということですから。

何のために=ゴール
どうやって=手段
です。

ゴールを決めて
そのための手段を考えましょうよ
ということです。

しつこいですか?
でも、我々日本人は、これが苦手です。
そのことによるメリットもあるにはあるのですが、それは後ほど。

そもそも、ゴールも決まってい状態で何かをやったところで、それをどこまで、どのようにやったら良いかなんて分からないし決められないのです。

でも、そういうケース、多くないですか?

なんで大学に来たの?
夢は何?
という問いに、どれだけが明確に答えられるでしょうか?

これは、そもそも日本人はそういう気質を持っていた…
わけではないでしょう。
いくら周囲を海に囲まれた島国だと言っても。

そもそも、海洋国家が戦略的な思考が不要なのかというと、決してそんなことはありません。

海洋国家は、多くのリソースを輸入に頼っているため、シーレーンを封鎖されると即死します。
なので、戦略的思考が無いと、お先真っ暗です。

では、なぜ現在のような戦略無し状態になっているのか?

これには原因があります。

まず一つは戦後の日本の状態。
それと学校教育。

戦後、我が国は日米安保条約によって、戦力を捨て、アメリカに守ってもらうことになりました。
お陰で経済、産業に注力することができて大成功!となりました。

自らを守ることを考えなくても良いなんて、普通はあり得ない状態です。
国にとって、もっとも大きなリスクについて考えなくても良いのですから。
でも、それが実現したわけです。

自らの国を守る必要は無くなって、それについて考える必要も無くなり、戦略について語ることすらタブーとなりました。

お陰で、何かに忠誠を誓うようなことはもちろん、何か一つのことに向かって皆で…
というようなことは軍国主義を思い起こさせるのか、同じくタブーになっています。
特に学校では。

企業なんかだと、一つの目標に向かって皆で力を合わせないと仕事になりませんし、戦略的に考えないと大したことはできません。
なので、学校とのギャップは巨大です。

でも、会社に入ったら目が覚めるから大丈夫!
とはいきません。
これは年々強化されてきました。自然に、自動的に。

そりゃそうです。
同じやり方で教育を継続していけば、それは世代を重ねて強化されていきます。
学校と社会のギャップはどんどん大きくなって行く。
破綻するまでは。

この状態について、他国の陰謀がとか、そんなことを言うつもりはありません。
誰かのせいにしても、なにも変わらないからです。

この状態を認識して、「ではどうするか?」
それがこれから考えるべき事です。

その前に「どうしたいか?」ですけどね。

戦争から学ぶ

一応、最初に言っておきます。
戦争なんか無い方が良いに決まってます。

しかし、人の命がかかった最もシリアスな出来事の一つなのは間違いないわけで、そこで用いられた技術や考え方は活かすべきだと思っています。

と、わざわざそんなことを言うまでも無く、そんなのは常識です。
技術に善悪は無いからです。

包丁は、人の命を育む料理を作れるけど、命も奪える
そんなのは、よく言われることでしょう。

戦争だって、結局は何かを守るために他の命を奪うわけでしょう。
繰り返し言いますが、そんなの起きない方が良いに決まってます。
さらに言うなら、人類何度愚かなことを繰り返せば気が済むんだ、とも思います。
この辺は機会があれば別で取り上げましょう。

さて、では戦争から生まれた、もしくは戦争によって発展した技術は何か?

これはもう皆さんご存じの通り

自動車
航空機
鉄道車両
船舶などなど
金属の加工技術は、刀剣や銃砲を作る中から生まれたものは多いでしょうし
ヘタすりゃ道路だって、ローマが広範囲な地域を支配するために高度な技術を使って作り出しましたし
インターネットをはじめとする通信技術や、瞬間接着剤だって…

もちろん、ハードウェアにまつわる技術のみならず、戦略的な考え方も。色々なところに活かされています

数え上げたらキリがありません。

戦争にまつわる技術は、最先端で頂点です。
そこから学ぶものは大きい。

各地で戦争・紛争が起きる中、こんなことを言ってしまうのは不謹慎なのかもしれません。
ですが、多数の命が失われていく中で、我々はそこから何を学ぶのか?
それをどう活かすのか?

技術とともにある者は、その辺もよく考えるべきではないだろうか、と思うのです。

と、ここまで書いて思ったのは…
戦争・紛争に限らず、日常生活だって余計な波風が立たない方が良いのかもしれませんが、意見の相違とか、言い争いとか、そんなところから学べるものも結構あったりするのですよね。

なれ合いでヌルくやっているところからは、あまり学ぶものは無いし、それによって成長もしないものです。

何事もゼロヒャクや正解・不正解で考えるのではなく、多面性とかトレードオフとかも意識すると、色々見えてきたりするのですよね。