求められる人材像…はどうなる?

教育とは
「言われたことができるようになることである」
というのが現在に続く主流のスタイル。

確かに今までは良かったのですが
これからますます予測の付かない時代に突入するわけで…

となると
言われたことができる
ばかりでは
なかなかうまくいかなくなります。

仮に
カリスマ超人のボスがいたとして
その人がアイデアを出して
仕事を組み立てて

部下に、いちいち
「言って」「やらせる」
なんてことをしていたら
仕事のレベルは上がっていきません。

ボスは、あっという間に疲弊して
限界に達してしまいます。

そのやりかたでは
ボス個人の限界が組織の限界
になってしまいます。

受動的な下々の者が
工夫もせず
言われたことをやる
という状況では
そうならざるを得ない。

今の学校のやり方に順応した
「良い子」が
そのようになるのは
今までもあったことですが

これからはAIがボスを助けて
仕事を回すために活躍するようになるでしょう。

すると、下々の者の受動的なやり方にブーストが掛かって
ますます受動的なマインドを加速するかもしれません。

一応言っておきますが
受動的ってのは
基本的に消極的みたいなもの。
どう考えても積極的ではない。

組織があったら
そこには複数の脳ミソがあるわけで
いかにそれを主体的に発動するようにするか
というのが今後の課題になるでしょうね。

というか、すでになってるのか!?

いずれにせよ、そんな課題を
バリバリゴリゴリ解決できる人財が求められる
そういう世の中になっていく気がしています。

そういう人はいつの世も必要でしょうけど
昨今は少ないですからね。

見えないものの価値を取りに行けない理由

見えないものは信じない?

まあ、そういう考え方もあるでしょう。

でも、そこにこそ価値がある
と言う考え方もあります。

アイデアの源は
思いとか考え方
それらは目に見えません。

目に見えないので
見えないものは信じない人
は狙いにいきません。

点数とか資格とか
知識とかロジックとかは
定量化・定型化できるので
手っ取り早くそういったものを手に入れると
何となく安心できたりします。

でも、よーく考えてみると
我々の周囲に溢れている
物体やサービスのほとんどは
人が作ったもの。

それらはどうやって作られたか?

ずーっと源流を辿ると
人の「思い」が終着点になります。

そこから発する
想像力とか
行動力とか

そういったものは
思いの強さによって発動するのです。

もちろん
定量化・定型化できる諸々を
手に入れるか否かも同様です。

幸いなことに
思いの強さなんてものは
自分で好き勝手に設定して良いのです。
誰の許可も資格も要りません。

でも、そいつを解放するとどうなるか?

「普通」じゃなくなるのですよ。

すると
普通じゃないことによるメリットと同時に
何かしらのリスクが発生するのです。

そこで

前に進めるか
腰が引けてしまうか

どちらになるかは価値観の問題なのでしょうね。

何が違いを生むのか?

ゴールを上へ上へ
と設定していく人がいます。
人間は欲深いです。
向上心とも言いますが。

対して
崇高なゴールを設定すれば
それは一生到達できないかもしれません。

それこそが人生である
と定義する場合もあるでしょう。

いずれにせよ
ゴールを設定したい
そこへ到達したい
という欲求は
理想と現状のギャップを埋めたい
ということです。

つまり
現状を評価して
「不十分である」
という判定が必要です。
そしてそれがゴールに向かう動機になる。

快適で満たされていれば
ギャップを埋める動機は発生しません。

興味深いことに
不十分な現状を
推進力にする人と
悲観的になる人がいるのですよね。

そして
そのいずれを選ぶかは自由なのですけどね。

そこにはどういった違いがあるのでしょう?

それはきっとね…

自信ですよ。