環境の威力 ひっくり返すにはチャレンジが必要

コミュニケーション力の問題
その根底にあるのは、こんなものだったりします。

失敗したくないから
傷付きたくないから
損したくないから

もちろん
上手にできないので恥ずかしいから

なので、できればやりたくない

つまり
ノートライ・ノーエラーの価値観がさらに根底にある
多分これは間違い無いでしょう。

コミュニケーション力は、その一端として現れているだけ。

これは今に始まったことではありません。
昔からあった。
そして日本に限ったことでもない。
どこにでもある。
程度問題だけど。

失敗は「損失」であり、「悪」であるとする価値観

そんなのは昔からあったのだけど、徐々に強化されてきたのでしょう。
問題として噴出するのは、何かにとって耐えられない状態になってきたから。

小さな子供だって失敗すれば恥ずかしそうにするけど、そんなのは大したことなくて、放っておけばいくらでも恥ずかしいことをします。

彼らはそういった経験から学んでいくのだけど、放置はいけません。
道徳観念とか、マインドとかスピリットなどは環境から学んでいきます。
その環境を作るのは年長者です。

その年長者の行動の動機が恐れだったとしたら…
何かしらの罪悪感とか、景気の低迷とか…それはもう色々あるでしょうけど
だとしたら、若年者に対しては「失敗しないように」導こうとするでしょう。

「失敗して欲しくない」という彼らの希望の押しつけ、というか、この場合は「願い」なのかもしれませんが、それが環境を形づくってきたなら、こういう状況になるのも仕方ないと思います。

なので、彼らに「何でそうなんだ!?」と彼らに問うても分からないでしょう。
実はその答えを知っているのは我々年長者だったりしませんか。

学習にしても、学歴や資格にしても、その先に望むのは成功では無く、失敗しないこと。

希望校に合格して欲しい、希望の会社に入社して欲しい
失敗せずに。
その価値観の刷り込みをしたのは環境であり、年長者でしょう。

しかし、夢は無い。
夢を追求すると失敗してしまうから。

そう、成功にたどり着くまでは、全て失敗だから。
最終的なゴールに対しては不十分な状態が続くなわけで、極論するとそれらは全て失敗です。

結果として、失敗はしたくないので、知識を身に付けて、学歴というチケットで入場できるところに入って、失敗しないように無難にやっていく…
こんな出来なりの未来にするしかなくなっているのでは?

しかし、成功に至る失敗を含むプロセスにこそ学びがあるわけで、うまくいくための知恵や工夫が生まれたり、成功するまで継続するために必要なメンタルタフネスが身に付いたりするのです。

というわけで、この問題は若年者のせいにするには的外れだけど、年長者のせいにしても自覚も無ければ責任も取れない。
皆で何とかしていくしかないと思います。

そう、皆でチャレンジするしかない。
夢に向かって。


恵まれてるから豊かじゃない…?

訳わかんないタイトルですね。

物質的に恵まれていて、不足を感じないなら想像力が豊かじゃなくなるかも、ってことです。
そう、お金の話じゃ無くて、想像力。

ものづくりでチャレンジするなら想像力が必要で、そういうお話しです。

ハングリーじゃ無いのはお腹が減っていないからです。
便利なものや楽しいもの、素敵なものがすでに身の回りにあって、その状態で満足していて不足を感じないなら、ハングリーじゃ無いのは当然です。

新しいものを作るときって
「こんなのあったらいいな」
からスタートします。

けど、そういう思いを持つ必要が無かったなら
つまり想像力が無ければ
「あれがあるといいな」
と、具体的な「もの」をベースに考えるでしょう。

具体的なものから発想をスタートするなら、概念的なところや、抽象的なレベルで「考える」経験はできない。

具体的なものの利用を考えるというのは、考えているようで考えていなくて、単なる「作業」になります。
まぁ、そういうのもアリで、必要だとは思います。
でも、創造的な活動をするなら、それはちょっと違う。

難しいな、と思うのは、満たされた心は幸せでしょう?
当たり前だけどハングリーな心は満たされていないわけで、それは幸福では無いってことになるのかな。

でも、そういう状態が理想であれば、不満足な状態が必要というわけで、では、満たされていない社会や環境が必要なのか?
それは極端かもしれないけど、ともあれチャレンジャーには満たされない心が必要。

満たされているか否かというのは、思いというか、考え方がによって決まります。
よく知られた表現では…

コップに半分入った水を見て
「半分しか入っていない」
と思うか
「半分も入っている」
と思うか

聞いたことがあるでしょう?
ただそれもゴールありきでしょうね。

おや、どんなゴールをセットするかが考え方に関わってくるとなると、それは想像力によるわけで…
むむ、振り出しに戻っちゃいますね。
さて、どうしたものやら。

ダメならどうする?

どんな時代でも常に問題はあるわけで、その問題を解決して先に進む必要があります。
で、最近の問題は何なのだろうなぁ、なんて良く考えるわけです。

もちろん、マイナスのものをゼロにする発想ではなく、プラス側のアクションによってマイナスを消去するか、気にしなくても良いような、そんな方法論があるといいのですけどね。

で、今日思ったのは「弱者保護」です。
大事なことだと思います。
もちろん、弱者保護そものもが問題なわけではありません。

この場合の「弱者」って、特定の何かを指しているわけではありません。
人は誰でも得手不得手があって、苦手なシーンなら弱者になり得ますから。

で、弱者保護に対策として「セーフティネット」と呼ばれるものがあります。
うまくいかなくても、失敗しても、それを救済できるようなものですね。

それまた結構なことなのですが、それが行きすぎてしまったり、対応するシステムや、ダメでも許容するシステムが行きすぎてしまうと、それはどうなのかな。

ダメでも大丈夫!
みたいな、訳が分からないことになりはしないだろうか?
一所懸命何とかしようともがいているヤツや、その末に何かを掴んだ者の立場がなくなる、もしくはメリットが縮小してしまうことにはなっていないだろうか?

ダメなものはダメでしょう。
それでも何とかしたければ頑張れば良いし、だからこそ得られるものに価値があるわけだし。
突き抜けて頑張ってるヤツが評価されないのであれば、頑張る事自体の価値や、その先にある喜びの大きさは半減してしまう。

そしてもちろん、色んな頑張りが評価されるべきなのだけど、定量化された、ごく狭い領域のものばかりが対象になっていたりしないだろうか。

その一方、ダメで苦手で好きになれずに、どうしようもないこともあるわけで。
ホントにどうしようもないなら、頑張り続けられないなら、それこそ方向転換する必要もあるでしょう。
その状態にフォーカスし続けるのは健全ではないし、それを保持したり許容したりってのも、あまり良い結果になりそうもない。

というわけで、夢工房ではどうしたら良いのだろう?
なんて思ったりしていました。

でも実は、その辺はあまり問題では無いというか、ものづくりにおいては答えはシンプルなのです。

凄いものを作れば良いのです。
理屈を超える、見たら伝わる感動ってあるじゃないですか。
そこを目指すべきで、それで良いと思います。
もちろんレースなら結果も含む、ってことですが。

とはいえ、苦手なこともやらないわけには行かないのが学生です。
なので消せない弱点はあるでしょう。
であれば、リソースを集中して何かに特化して、ブチ抜けてしまうのも戦略です。
学校では評価されないかもしれないけど、社会に出たら確実に価値に変換されますから。

個人レベルでは全方位強化のストロングスタイルがある必要はありません。
それぞれの特化した力を束ねれば良いのです。
チームはそのためにある。