必死さの価値

我が国は先進国の中でも、貧富の差が少ない、もしくは見えにくく、皆がそこそこ豊か。
で、安心、安全、便利。
そんな世の中なのは結構なことなのだけど…

何事も多面性があって、善悪二元論で割り切ることはできない。
何事も固定された価値観で判断するのは危険。

安心、安全で便利な世の中
そんな世の中になると、必死になる必要が無い。
動機が無いから。

でも、大変な思いをしないと得られないものはある。
必死にならないとできないことはある。
そういったリスクと引き換えになるものは、大きな価値を持っている。

必死な状況に置かれる事による負荷やリスクを回避する
それと
必死さの先にあるものを取りに行く

それらを秤に掛けて、どちらを選ぶか?
それは価値を生み出す立場に立つか否かを選んでいるということなのだけど。

でも、大抵はそのような比較をするまでも無く、ほとんど反射的にどちらかを選んでいるのが実情でしょう。

その反射的な反応は、恐らく環境によって構築されて習慣化されたもの。
そう、安心、安全で便利な世の中になることによって。

では、安心できない危険な世の中なら、そんな環境なら良いのか?というと、決してそんなことはない。
でも、そんな安心できない社会に生きる人が、我々が持っていない感性や価値観を持っていることも事実なわけで。

結局の所、環境に流されたり、既存のお仕着せの価値観に無条件に流されるのではなく、必死にチャレンジして自分の価値観を構築していくことが大事なんだよな、と激変する世相と学生達を相互に見ながら、なぜがそんなことを思うのでした。

得じゃなくて徳の話

自己の利益しか考えなくなると、恐らく衰退するのではないだろうか?
個人はもちろん、国家も。
それが短期的な利益となるとなおさら。

そんなことが最近気になっていたりします。

というのも、さんざんこのブログで言ってきたいるように、価値は自分が決めるものではなく、相手が決めるもの。

自己の利益を追求するのは自然なことのようだけど…。
自己の利益を直接的に追求する行為は、相手にとっては価値が無いのは当然。
そこに注力する結果、他に対する価値を発信できなくなって、結果として自己の価値が低下する。

まぁ、当然といえば当然のこと。
他の利益を考えて発信したものが、受け取る側にとっての「価値」なのだから。

他のために、という考え方、それは道徳観ですね。

道徳観が高いということは、他の利益を考えて動けるということ。
それができる人は、周囲から見れば価値のある人。

その価値を及ぼす範囲が広ければ広いほど、期間が長ければ長いほど、価値は大きい。

その価値を皆で回していけば…

道徳観が高い社会であれば衰退しないのではなかろうか。
その逆であれば衰退するのは必然なのではなかろうか。

さて、今我々はどこに向かっているのでしょう。

ああ、徳のある人になりたい。
難しく、勇気の要ることです。

ビジョンの重要性

ビジョンは、「将来こうありたいな」という想像であり、ゴールです。
現状に対して高いところにあって、ギャップが存在する。
でも、そのギャップを埋めて、到達できたら良いですね。

そのためのことを頑張っても、100%実現することはなかなかありませんけどね。
それでもビジョンは大事。

今この瞬間は何のためにあるかというと、未来のためにあるのです。
ビジョンがあれば、今どうすべきかは簡単に決まります。たぶん。

そして、ギャップを埋めていけば理想に近づきます。
近づくといっても、ほんのちょっとだけかもしれないし、ずっと続けても理想通りにはならなくて、理想からちょっと下がったところに着地することになるかもしれない。
というか、大抵はそうなる。

その結果
「なーんだ、思った通りになんてならないじゃないか」
と思うこともあるかもしれない。

でも、それでもビジョンを持たず、方向性を定めない状態よりは、ずっとマシ…というか、比較にならないほど良い状態になるのは間違いない。

それに
「思った通りになんてならない」
と思いながら何かをやったところで、面白くもないだろうし、良い結果が出るとも思えません。

それに、やってみた結果、100%満足する所に到達できなければ、その後にすべきことがまだあるってことです。
すべきことがあるってのは幸せなことです。
すべきことが無いなら、自分がいる意味は無いでしょう?

それにね、やることなすこと100%を達成できちゃったら、多分そこから学ぶことは無いし、面白さはないと思いますよ。

だって、やる前からうまくいくことが分かっていたら、そんなのそもそもやる意味無いじゃないですか。

大事なのは、理想に近づくプロセスを継続するところに面白さとか喜びを感じられるようにしていくことなのではないかな、なんて思う今日この頃。