AIの時代に向けて

AIがに人の仕事を奪うなんて言われたりするし
AIが我々の代わりに仕事をしてくれるとも言われる

どちらも間違えてはいないでしょう。

AIが我々の知能を越えるシンギュラリティに対する警戒などはあるかもしれないが、そういったものを恐れていても始まらない。

大事なのは、奴らをいかに上手にツールとして使うか。
あとは、奴らにできることの価値は低下するので、人間ならではのことにフォーカスすること。

しかし、人間ならではのことって何だ?なんてことを考える日が来るとはねぇ。
人間って何だ?なんてこと、普段考えませんものね。

そういうのって、哲学的というか何というか、そういったものでしょうから、時間をかけてじっくりいくべきなのでしょうね。

では、じっくりいかずとも分かるものは何でしょう?
消去法で考えてみましょうか。

まず、凄くザックリいくなら、数値などの定量的なものや、文字や画像の情報などの視覚的な情報。
こういったいわゆる定型的なものはAI得意です。

そして時間軸でいくなら過去から現在に至る情報ですかね。
そういったメモリーに格納できるものは得意でしょう。

あとは作業的なものですかね。
計算とかも含めた情報処理的なヤツ。
何かしらのルールに従って処理できるものですね。

とまぁ、そんな感じのものを消去していくと、残るのは定量的ではなく、不確定だったり、定型的では無いもの。
その辺が我々が注力すべきもののようです。

あと、ヒントになりそうなのは…

人対人のコミュニケーションにおいて、言語による情報伝達は、全ての情報の7%に過ぎない…の、残りの93%の中にありそうです。
印象とかフィーリングとか、なにか曖昧で定量的にできないもの。

そんなことを考えていると、これからの世の中において、ものごとの価値が大きく変化しそうですね。

願わくば、そういった流れにフォローするのではなく、クリエイトする立場でありたいものです。

さて、どうなることやらお楽しみ。

払った分は必ず帰ってくる

コスパとかタイパとか言いますが…
多くの場合、端的に言うと「払いたくない」「だけど欲しい」ってことでしょうか?

払うから相応の価値が欲しい
というなら健全というか常識的というか…

でも、若年層ならほぼ間違いなく
「払いたくない」「だけど欲しい」
でしょう。

何を?って、お金とか労力とか、リスク全般でしょうけど。

コスパが良いとかタイパが良いとかってのは
払いたくないけど、最大限に得たい
そういうことです。

コスパやタイパなんて言葉が登場したのは最近ですが、若い頃なんて誰しもそんなものです。
経済的な理由はもちろん、経験が無いと勇気も無かったりするし。

そう、払うのはお金だけじゃなくて、勇気や労力、リスクも含んで。

で、年長者として言っておきたいのは
やりたいこととか信じたものはやっておけ
ってことです。
もちろん結果はどうあれ、です。

結果に関しては最も気になるとことだと思います。
だって欲しいゴールのためにやるのですからね。当然でしょう。

けど、無駄な経験は無いのです。

というか、何度も言っているとおり,、無駄にするかどうかは自分次第です。
望まない結果が出たとしても、そのプロセスで得た経験は再利用できますから。

なので、お金も勇気も出し惜しみするのが最も残念な結末に繋がる可能性がある。
それは…

経験が無くて分からないこと
です。

ダメな結果が出る
というのは
これをやるとこうなる
という経験を得ているわけです。そうなることが分かった。
これはとても重要なこと。

そして
分からない
というのは恐怖につながりやすい。
するとますますやることが硬直化してしまって、現状から変化できなくなる。

変化できないというのは、成長できないということです。

托鉢の話も同様なのですが、お金も勇気も蝋両区も、払った分はいずれ必ず何かしらの形で帰ってきます。
勇気要りますけどね。

これ、年取ってから気付いても遅いだろうな、と思うことの一つです。

やらせるからダメなのだが

かつて我が国には「一億総中流」と呼ばれる時代がありました。

これ、貧富の差が少なく、多くが特別豊かではないが、貧困でもない、という状態だったのです。
それが長いこと当たり前だったわけですが、世界的に見たらとても珍しい状態だったのですね。

そういう状態を支えていたのは、大きく二つの原因があると思っています。

一つは、高度経済成長のベースとなっていた、大量生産体制。
向上で安価で高品質な製品を大量に生産していた。

そしてもう一つは、そのための一定の知識やスキルを持った人材が大量に必要になるわけで、そういったニーズを満たすための教育システムの確立。

そんな状態が長いこと続いてきたのだけど、このやり方は人件費が安くて人口が多いのであれば成立するけど、それらのいずれか一方が維持できなければ継続は難しくなる。

で、人件費が上昇し、人口が減少した現在に至る。

もちろん低コストで大量生産のビジネスモデルはとうに成立しなくなっているのだけど、教育システムの基本形は変化せず。

言われた頃をやるという機械的な能力の重視と、考えることよりも記憶力をベースとした教育という形は変わっていません。

このシステムのトレードオフとして、尖ったヤツが少なくなるということなのですが、だからこそ貧富の差がない、均質的な社会が実現する。

興味深いのは、一億総中流であった頃よりも、むしろ今の方が人は均質化しているような気もすること。
まぁ、教育システムが同じ形で続いているならそうなるのは当然か。

問題は、この先どうしていくべきなのか。
社会の形は変わろうとしている。(すでに変わっている)
教育は未来の社会のためにあるのに、旧来の形のまま。
その形を保てば、かつての一億総中流に戻れるわけでもない。
なので、このままで良いはずは無い。

とはいえ、均質化から脱却して、個性や自発性を重視した自律的な教育に変えていくとどうなるか?

やはり二極化するのかな。
するのかもなぁ。
でも、それ以外の方法があるのだろうか?

その辺を考えるのは恐ろしくも難しくもあるのだけど、きっと避けては通れない道。
何か良い方法があるはずだ。

とか考えていると、やはり新しい時代がやってくるのは必然なのだろうな、と思うのです。
どうせなら、面白くしていかねばなりませんね。