問題解決能力

昨日の記事で

勉強を頑張れば、問題を解くような能力は身に付くだろうけど、それは世間一般で言われる「問題解決能力」では無いことは分かっているのだろうか。

と言ったので、今日のお題はこれにしてみました。

「え?問題解決なんだから、単に問題を解決する能力だろ?」

そうなんだけど、それだけじゃない。

まずは問題を問題として発見したり認識したりできるか?
これが大事。

例えば、現状を俯瞰して確認できるとか。
「そもそもこの状態で大丈夫なのか?」
とセンシングできないと問題を認識することはできない。

学校の授業で与えられたような課題を解く
なんて経験ばかりだと、チェックするのは常に他人なので、こういう能力は身に付きませんし、ついでに言うと、そういうのは単なる作業です。

分かりやすい例として、カンニングペーパーがあれば何とかなるようなことのほとんどは作業であって、問題の解決ではありません。
あらかじめ決まったやり方に従ってやるだけ。それは作業です。

まずはなにをもって「問題」とするか
というのもあって、それがまた重要。

「問題」とは言っても、それは目の前で発生したネガティブなこととは限りません。

例えば
レーシングカーを作るのだけど、要求性能を満たさねばならん
なんてのも問題。

このままで良いのか?
と思ったら、それも問題。

というわけで、自ら問題を作ったり発見することができるのかというのが大事なのです。
他から課されたタスクを受け取るだけでは不十分なのですね。

学校では問題など発見したくないでしょう。
できれば発見しちゃっても見なかったことにしたいでしょうし、まして自分で作り出すなんてとんでもない!

これは好む好まざるに関わらず、常に他からタスクを課されて処理しなければならない状態に疲弊しているのかもしれませんね。それが続けば習慣化してしまう。

さて、では解決についてはどうでしょう?

この解決については、何も今まで習った理論を使わなければならないということはありませんし、むしろそういうもので何とかできるケースは希かもしれません。

分からなかったら調べれば良いし、どうにもならなかったら人に聞いてもいい。
やったことが無いなら、試しに何かやってみればいい。
それこそが学びです。

一人でどうにもならなかったら仲間と力を合わせてもいい。
それがチームワークで、そこで必要になるのがコミュニケーションです。
学校では、仲間と力を合わせて回答したらカンニングと言われて罰せられますが。

というわけで、問題解決能力を磨きたければ、そういう能力が必要とされることをやるしかないのです。
いわゆるプロジェクト的な活動は最適でしょう。
残念ながら、いくら授業で頑張って勉強しても、本を読んでも不十分で、実践するしか無いでしょうね。

近年では、PBL(Project Based Learning)というのが良く言われるようになってきました。
そういうのも大事で、やらないよりは良いのですが、そもそもそういったあらかじめ用意されたものに取り組む時点で、外部からタスクを課されているわけで…。
なかなか難しいですなぁ。

今日の妄想

恐らく世間一般では、こういうことになっているのでは無いかなぁ、という妄想です。
勘違いなら良いのだけど。

子供達は公園で友達と遊べずに、画面の前で他人が作った情報を受け止めて楽しむ。

学校では言われたことをやる。
余計なことをやったり、失敗したりすると嫌な思いをするので、それは避けたい。

沢山暗記して、出された問題を解けるようになって、良い学校に入って、良い会社に入るのは何のため?
自分が楽な暮らしをするため?
世のため人のためとか言っているのは変な人?

確かに勉強を頑張れば、問題を解くような能力は身に付くだろうけど、それは世間一般で言われる「問題解決能力」では無いことは分かっているのだろうか。

先生の言うことを聞いたり、友達と楽しくおしゃべりをするのがコミュニケーション力ではないことは分かっているのだろうか。

創造性や主体性を養うためにはチャレンジして失敗して、その経験をブラッシュアップして再度チャレンジする、そういう経験が必要だと言うことを分かっているだろうか。

分かっていても、どうしようもないのかもしれない。
だってそういうものが必要無い環境で育ってきたのだから。
もちろん自分で作った環境ではない。

そして恐らく、そういった環境というかシステムを作った人も悪意は無くて、きっとそうすれば何かがもっと良くなると信じてやったのでしょう。

ある点においては成功していると思う。
多くの学生達はもの凄く従順になった。余計なことをしなくなった。

私が中学生、高校生の頃は、ヤンキーだらけで校内暴力バリバリの、毎日が北斗の拳のような、どうしようもない時代だったので、その頃に苦労した人達にとっては夢のような状態かもしれない。
その年代の人達は皆定年退職しちゃってるでしょうけど、夢が叶いましたね。

ただし、大人しい学生達は、反応もしなくなったし、想像もしなくなった。
恐らく、今やそんな能力は学校の中では役に立たないし必要無いから。

学校という枠の内側にいる限り、危機的な状態になっているということには気付かない。
言われたことをやって、それを上手にこなせると高い評価をもらえるし、無難に過ごせば卒業証書がもらえるから。
それが社会に出たら威力を発揮してくれると信じて。

自分が・安心できればいい
というミニマムなところを多くが狙うと、人の集合体は危機的状態になるのかもなぁ、皮肉だなぁ、なんてことを考えたりなんかしています。

これらが妄想なら良いのだけど、いずれにせよこんなのとは真逆の方向に突っ走りたい夢工房なのでした。
だって、こんなんじゃ誰もハッピーにならんでしょう。

と、このようなネガティブなことを考えてクヨクヨしているかというとそうでもなくて、これだけ思い付けば少なくとも打開する方向は見えたようなもので、後はアイデアを出してトライするだけなのでした。

トレードオフができるかい?

我々は欲張りですね。
アレも欲しい、コレも欲しい、となりがちです。

アレもコレも手に入れられれば良いのですが、我々の手のひらの上に載るものには限りがあります。
無限に何でも手に入るわけではない。

分かりやすいところでは時間でしょうか。
何か一つのことに時間を使えば、その他のものに使う時間は減る。

他にも、専門性を高めると汎用性は下がる
目先の楽なものばかり手に入れていると、やがて面倒なことが起きる
などなど。

何かをやる上で、こういったことを意識しているでしょうか。

何を求めるかを決める時、何かを手放すことになります。
それを意識するかしないかってものありますが。

本当に自分にとって大切なものは何か?
そのためには何かを手放さなければならないのだけど、そのための勇気があるか?

この手に入れるものと、手放すもののバランスを決めているのが価値観でしょうね。

この時に、「普通は」とか考え始めると、普通の人が持っているものを手放せない。
もちろん、普通ものもしか手に入らない。

そういうとき、自分が何に価値を置いているのかが明らかになります。

他と異なることになることを恐れ、そのリスクを回避することに価値を置くのか
それより独自性を持つことに価値を置くのか

まぁ、多くの場合はあまり意識せずに無意識のうちに即決してしまうことが多いのですけどね。
なので自分がどういう価値に基づいてどういう選択をしたのか気付かなかったりします。
自分のことなのに意外でしょう。
習慣ってそんなものですけどね。

現状の自分と理想の間にギャップを感じますか?

それを埋めたければ、自分が無意識に下した選択を振り返って、そこでどういう意識(まぁ無意識ですが)が働いたのかを振り返って、「次はこうしよう」とあらかじめ決めておく。

そういったことを繰り返せば、少しずつギャップは埋まっていきます。
勇気と労力は要りますけどね。

で、そんなことを考えたりやったりするのも、何かとのトレードオフになってます。
そう、勇気と労力をペイして、理想を手に入れるトレードオフです。

人生面白いもので、こういったトレードオフは、即効性は無くても、いつかきっとリターンがあるのです。
リスクを払ったチャレンジは、きっと報われるときが来るものです。

そんなのめんどくさい?
じゃぁ、払わなければいいじゃん。
それもまた人生です。

そうそう
コスパのいい~
失敗しない~
ストレスの無い~
とかいうワードには気を付けましょうね。
理由はもうお分かりでしょう。