自己評価は能力ですよ

「やれ」って言えば「やる」
そして「できる」ようになる
できるようにするためには、「やれ」と言ってやらせることだ
と思ってたりしますが…どうなんですかね?

確かにそれも一理ある、という気もしますが。

次の成長段階では、望む理想に対して何が不足しているのかを自覚して、それを自力で取りに行くこと。これが自ら学ぶと言うことでしょう。

それには理想が必要です。「何のために?」です。
そして、理想と現状とのギャップを自分で認識して、それを自力で埋めたいと思うことが必要です。

やっていることに対する他による評価も大事で、大いに利用すべきですが、自己評価ができることは重要です。
この場合、何をやっているかというと、自分が取り組んでいる現状や成果を客観的に評価するということをやるわけなのだけど、これは「このままやったらどうなるのだろう?」とか、「他からはどう見えるのだろう?」とか、「相手はどう感じるのだろう?」というようなシミュレーションですよね。それによってその後の方向性を決めたり、価値を見積もったりということをしたりするわけです。

それができるよになると、「良いもの」「価値あるもの」を作るための能力を一つ手に入れたことになります。

で、そういう能力を持っているのは、やりたいことをやってきた人だったりします。
やりたいことをやって、満足とか喜びを得たいなら、自ずと自己評価が必要になりますから。

対して、言われたことばかりをやる場合、自己評価はほとんど必要ありません。
だって、言った人が評価するのだから。
だから、自分で「自分がやったことがどうだったか?」なんてことは良く分からなくなっちゃっても仕方ないんですよね。
これ、結構恐ろしいことじゃないでしょうか。

今回は「自己評価」なんて言ってみましたが、多くの場合、特に学校では「反省」と呼ばれますよね。
そうなったとたんに、暗い顔で俯いて「もうしません」みたいな感じになっちゃいます。
そんな状態で、ものごとは良くならんでしょう。

うまくいかなかったり、やらかしてしまったら「で、どうする?」が大事なわけで、下向いて思考停止しても、何も良いことはありません。

ぶつかるくらいじゃないと本物じゃない

本気で目的を達成しようと思う者が集まって、チームとして活動しているなら、意見の相違などがあってぶつかるのが当然です。
むしろそうならなければ本物ではないとすら思っています。

別に喧嘩しろってわけではないですが、チーム全員が一つのゴールに向かっていたとしても、それぞれが考えていることは微妙に違っていたりすることは当然です。

チームで何かをやるときは、それぞれが担当を持っていたりするわけで、そうなると各人の欲求を満たそうとすると衝突が起きるのは当然です。

それはなぜか?

クルマなどは分かりやすいのですが、あるパートの性能を最大化しようとすると、大抵は何かしら妥協をする必要が生じます。
そうやってコンセプトの達成に向けてバランスを取る必要があるわけです。

昔一緒に仕事をしたことがあるF1マシンの車体設計者も言っていました。

「F1だって妥協の産物なんだよ」

「部分」が最大限の性能を出したとしても「全体」が狙いに対して最適になっていなければ勝てないよ、ということです。

担当各人が、自分のやり方や価値観で行きたい、それで成果が出せるはずだと思うなら、相手に妥協を迫る必要があるわけで、その思いが強ければ衝突が起きるでしょう。
むしろ何かしらの衝突が起きないようでは、本気でやっているとは言えません。

衝突が起きないとしたら、絶対的な権力を持ったリーダーが、トップダウンでやらせているか、メンバーのモチベーションが低くて、各人が本気でやっていない可能性があります。

最近では、衝突を起こさないことが最優先事項になっていて、そのために取り組みの内容が自然と妥協したものとなる…なんておかしなことも起きていそうです。

いずれにせよ、そんな組織では成果は出ないと思います。

各人が最大限の理想を出して、その上で摺り合わせをして皆で共有できるゴールや、チームの理想を作っていく…と、そんなのが理想だと思います。

本気でゴール達成のための行動を取ることができるか?
衝突を避けるために表面的な「仲良し」に終始するのか?
その辺が大きな分かれ道ですが、一般的に学校では迷うことなく後者を取らせるでしょう。

だって、その方が面倒が無いもんね!
面倒が無い…つまり価値が無いということになりますが。

チャンスの逃し方と掴み方

チャンスって何でしょう?
日本語では、機会とか好機とか、そんなことですね。

で、それらは目に見えないことがほとんどです。
だから掴むのが難しい。

学校って、チャンスが溢れていたりするのですが、それが利用されないことが多いです。
どうしても「やらされる」経験が多くなるので、チャンスと単なる負荷の見分けが難しいのかもしれません。
チャンスを掴むってことは、同時に責任も生じるし、当然ながら負荷も発生しますから。

さて、そんな学校にいると、チャンスを逃してしまうケースを目にすることも多々あるわけで、そんなのを見ていると逆にチャンスの掴み方が分かったりもするのです。

さて、チャンスを逃すとき、どんなことが起きているかの一例です。

チャンスが放られたら…
それを掴むか否かを良~く考えて返答に迷う。
そうこうしているうちに、チャンスは行ってしまいます。
あら、残念。

「迷い」は、あまり良い結果に繋がらないのです。
その理由はこうです。

時間は有限です。
考えている間も確実に時は流れてゆき、実行する時間は減っていきます。
実行できなければ、チャンスの意味はありません。

チャンスは自分以外から放られます。
放る理由は、相手に期待しているからです。
「コイツなら、このチャンスを面白く転がしてくれるだろう」と。
そこで迷ったりされると…
「あぁ、期待外れだったか」
となります。
期待に答えなければ次はありません。

迷う気持ちは分からなくもないのですが、勘違いしてはいけないのは、放られたチャンスは私物化するべきものではないってことです。
期待されているのは、チャンスを利用して価値を作り出すことです。
価値は他に発信するものです。他人にとっての価値です。
それができれば、価値を創造した本人の価値が高まるということです。

で、チャンスを掴むか否かで迷っているとき、何を考えているかというと…
大変かなとか、難しいかなとか、失敗しないかなとか、損しないかなとか
大抵は自身の損得勘定を働かせていたりします。

チャンスに対するアクションは、チャレンジです。
チャレンジは、やってみなければ分からないことで、必ずリスクを含んでいます。
最初からうまく行くことが確定しているなら、それはチャレンジとは呼びません。

大変なこととか面倒なこととか、そういったことにリスクを取ってチャレンジしてくれる人って貴重な存在です。それが価値の本質でしょう。

さて、そもそもチャレンジに没入できれば、それは負荷でもなんでもないわけで、自分の好きなことをやるとか、腹が決まった状態とか、そういう迷いが無い状態なら成果も出しやすいはずです。

やってみないと分からないことは、考えても仕方ないのです。
たとえうまくいかなくても、経験が手に入るので損はしません。
なので、正しいチャンスへの対応は、「来たと思ったら迷わず掴む」これに尽きるでしょう。

今年も学園祭の展示用に、鈴鹿8時間耐久ロードレースの出場マシンをTeam NOBBYからお借りしました。
今年は夢工房の学生5名がクルーとして参加させて頂きましたが、そういうチャンスはリスクとか責任もセットになっているものです。
だからこそ価値ある経験ができるのです。