理屈・理論では動けない

人は理屈とか理論、公式では動けません。
法律やルール、常識などに縛られていたりもしますが、それによって動くわけでもありません。

では、何によって動いているかといったら、やはり自分の「心」に従っているということになるかと思うのです。

だって、理屈やルールに従って、なんでもキッチリできるわけじゃないでしょう。
いくら理屈通りでも、やりたくないものはうまくいきませんし、ルールに従えないことだってあるでしょう。ここでは、それが良いとか悪いとかという話をするつもりではありませんが。

結局、行動を決めるのは各人がどう思っているかということです。

なので、国や組織、個人の行く末とか、そういったところを理想に近づけていくには、同意できたり信じることができるゴールが必要で、それに対して「どう思っているのか」というのがとても重要になるかと思うのです。
だって、どう思っているかが行動につながって、それによって結果が決まるのですから。

我々の心が何をするかを決めている、未来を決めているということになりますね。

そんなことを考えていると、一人の学生がやりたいこと、やるべきことを一所懸命やるというのは、実はとても大事なことなんだよなぁ、と思うのです。
その成果が及ぼす効果は、本人が思っている以上に広範に影響を及ぼすはずですしね。

そういったことがうまくいかなかったりする理由などは、調べたり考えたりすれば色々出てくるかと思うのです。でも、大事なのは「ではどうするか?」です。
これも答えなんて無いでしょうから、やはりトライアンドエラーで模索するしかないのでしょうね。これまた理屈じゃないってことですね。

大きいことからやってみよう まずやってみよう

色々やるのは良いことなんですけどね。
ここでは経験の数とかそういうことではなく、ちょっと違う話をしてみましょう。

我々理系人間に限らず、今どきの教育を受けた人間は、世にあるものごとは、色々なものによって構成されていることを知っています。

工業製品なんかは分かりやすいのですが、分解していくと、最後には最小単位の部品になります。

知識とか理屈の話でいくと、まず最初に最も基礎的な知識とか単位があります。
文字とか単語とか、計算とか元素とか。

では、何か「為したいこと」…例えばレーシングカーを作りたいとか…があったとして、それは最小単位から考えたり構成していくのかと言うと…

この時点ですでに何かおかしいことに気付きますか?

「為したいこと」は最終形態なので、最小単位ではないですよね。当然ながら。
むしろ最大です。
なので、ここで急に最小単位について考えるってのはおかしいのです。
そんなことできるわけありません。

クルマ作りたい!
じゃ、まずボルトの図面描かなきゃ!

おかしいでしょう?

最終形態をどうしたいか?というビジョンというか、理想の側から考えて、構成しないとできないのです。

最終形態を形作るためにはどうしたら良いか?
というのを考えて、そこから徐々に分割していって、最終的に最小単位のものをどうするかが決まる、という順番です。

で、話をちょっと戻します。

文字とか単語とか、計算とか元素とか、そういう小さいことを学んで覚えていったら、最終形態にたどり着くのか?

そんなことは無いって事です。

もちろん基礎的なことは大事です。その後に使うことになる大事な要素なのは間違いない。

でも、そういうのをいつまでも延々とやってたって何も起きません。
いつかはそこから離れて、最終形態に関することをやらないと、大きなものを形作るためにどうしたら良いのかは分からないままです。

良くありがちなのは、「基本からしっかりやっていくんだよ」みたいな感じで、ちょっとずつ難易度を上げていくってのをやったりします。

でも、そんなことやってたら、クルマを作るなんてことになったら、一体どれだけ時間があればいいんだよ!?なんてことになります。
何がどれだけ足りないかなんて分からないままです。

そう、ある程度基本的なことをやったら、最終的にやりたいことをやってみたら良いのですよ。何が違うのか、何がどれだけ足りないか分かるから。
そうしたら、その後にやるべきことが決まるので、あとはやるだけ。
自分に足りないものがどうしても欲しければ、頑張って手に入れれば良い。
やってみたら分かるよ、ってこういうことでもありますね。

ただ、この方法でやると「あ、これじゃダメだ」って分かるわけで、それは一般的な価値観でいくと「失敗」と呼ばれます。

それに対して前述の「基本からしっかりやっていくんだよ」みたいなやり方は、いわゆる失敗は最小になります。
でも、何が違うのか、何が足りないのかは、ずっと分からないままです。
なので、最終形態を形作ることはできなくて、言われたことをやるしかなくなるのも分かります。

そういうことなんですよ。

不立文字

禅の教えに「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。
文字で全ては伝えられない
というような意味ですね。

これに対して昨今では、「文字になっているものばかり信用する」のような風潮がある気がしてなりません。
加えて言うなら、形になっているものしか信用されないような風潮も感じられます。

やってみなけりゃ分からない

これが軽視されているというか、ほとんど無視されてる気がします。

やってみなけりゃ分からないことを、やらなくても分かるようにするのがテクノロジーだったりするのかもしれませんが、それには限界があります。

だって、新しいことをやったら、それによってまた新しいことが起きるのですから当然でしょう。
やらなくても分かっていることは古いことです。

なので、ここから先は考えても分からない「やってみなけりゃ分からない」が必ず出現します。

それに、そもそも「やってみよう!」と思う気持ちが無ければ何も始まらないのですが、それは文字や形になりません。字面だけでは伝わりませんから。でも、とても大事なことです。

せっかく学校で学んでも、「知る」ばかりで「やる」経験がないなんてことが起きているとしたら、それは残念なことです。

文字にできない「やらないと分からないこと」が沢山手に入ったら、それはそれは強力な、一生使える武器になることでしょう。