フタを外そう

多くの学生、保護者、学校が望む「学力向上」ですが
どうにも違和感を感じるのです。

もちろん、学力が向上すること自体には
何の文句も無いのですが
恐らくこの場合
「学力だけ伸びればいいのだ」
というニュアンスが強いのではないか
と思っています。

特にいわゆる中堅どころ以下の場合。

違いますかね。

だって、学校ではほとんど勉学しか教えないでしょう?
そりゃ他のこともあるにはあるでしょうけど
いずれにせよ定型的な知識が中心で
それを「やらせる」のが中心ですよね。
決まったことを「やらせる」。

勉学やって成績上げたら良い仕事ができるなんて
そんなの幻想だと思うのですが
どうなんでしょう?

そりゃぁ、中にはそういう経験をして社会に出て
良い仕事をする例も出てくるとは思いますが
そんなのは少数で、ほとんどギャンブルみたいなもの
になっちゃうのではないかと思ってます。

言われたことをやる勉学に馴染めない学生達だって
多くは存在意義が欲しくて
何かしらやってみたいのだと思っているでしょう。

ただ、それにはフタをされている。

「そんなの勉強できなきゃ…」
みたいなフタです。

恐らくそれは
かなり早期にセットされてしまって
創造性などを押さえ込んできたはずです。

そしてそれが習慣になって
本当に創造性が無くなってしまう。

自由に広がっていくのではなく
すぐに収束して狭いところで思考する

そんなふうになっている気がします。

そうなってしまったら
フタを外して際限なく高くジャンプしても良いのに
できるだけ小さく収まろうとする。

それで、勉強さえできるようになれば
将来が明るくとか、安定とか、安心とか…

そりゃ本当なのか?
って思ってしまうのです。

そう。
夢工房は彼らの「フタ」を外したいのです。
それが我々のミッションだと思っています。

環境を作るということ

人の成長には環境が重要です。
学校、学生に限ったことでは無いですが。

その環境は、用意されたものであることが当然
という風潮がありませんか?

ちょっと分かりにくいかな。

「学費払って学校に行っているのだから
ベストな環境がすでにあるべき」

「会社が良い環境であるのは当然で
楽ちんな仕事を的確に指示すべき」

まるで、商品をお金を払って手に入れたのだから
不良品は許せない
みたいな。

で、気に入らなければブラック呼ばわりするとか。

まぁ、分からなくは無いです。

お金を払えばソコソコのものが
当たり前のように手に入る世の中なのですから
そんな風に思う人がいるのも理解できます。

でも、今回言いたいのは

そういうところで環境を作る努力をするのも
良いんじゃないの?

ということであり

それをやったら皆のためになるんだから
自分の価値が向上するので
自分のためになるよね。

ということなのです。

そもそも完璧な組織なんて無いわけだし
自分が所属して、特にやることがなかったら
つまらないじゃん
と思うのですよ。

ただいるだけ
言われたことをやるだけ

そんなんじゃ面白くないでしょう。
成長もできないし。
自分がいる価値とか意味とか無いですものね。

完璧じゃ無いから色々やることができるわけで
そこで環境とか風土とかを自分の手で作り上げることができたら
それは凄い経験だと思うのです。

ここからは想像なのですが

今の日本の学校って
若者を成長させようなんて
思ってないところが多いのではないだろうか
と思うことがあります。
杞憂ならそれに越したことは無いのだけど。

色んな人に文句を言われないように防御壁を張って
学生の頭の中にそこそこの知識を突っ込んで
「よかったね!頭良くなったね!」
で、そこから先は社会にお任せ!
って感じになってないだろうか。

もちろんこれは学校に勤める人間
つまり先生がそうしたいと思って
しかもよかれと思って…

実は学生自身も保護者も
同じようなことを望んでいて
失敗しないように、傷付かないように
頭の中に知識を詰め込んで
「よかった!頭良くなった!
これで楽して稼げる!」
ってやりたかったりしないだろうか。

頭に知識が入ることが成長だと思っていたら
そうなっちゃうかなぁ…なんて。
考え過ぎなら良いのですが。

でもまぁ、我々は我々のやり方でやらせてもらいますよ。
授業じゃないし。

自身の力で作り上げるというチャレンジをして
どこまで成長できるか。

そんな経験が皆のための
何かしらの目安になったら、これ幸い。

人は意味の無いことに耐えられない

学生が色々できるようにならなきゃと言う。
数学とか力学とか語学とか。

まぁ、結構なことです。

でも、それが何のためなのかが定まっていなければ
難しいことになるでしょう。
なぜかというと

人は意味の無いことに耐えられないから。

目的、目標が無ければ学習は
「意味の無いこと」
ということになってしまうのではないかな?

勉強でも何でも良いけど
「何のために」が無ければ
そこに意味は無いわけで
意味が無いことをいつまで続けられるのか?

実際、私はそんな状況でした。
大学では、一部の科目には異常なほど興味を持ちましたが
興味が無い科目には全く力を入れられませんでした。

で、サーキットばかり行っていたわけですが
まぁ、それはそれで良かったかな、と思います。

勉強ができないコンプレックスが
バネになったような気もしますし
興味を示せた僅かながらの工学的な知識を
活かすチャンスにもなったと思いますし。

しかし世の中には
学ぶことそのものが目的になっている人はいるわけで
それで勉強ができる人って凄いな
って思います。

でも、それは自分のやり方ではない
そう思っている学生は結構いるはずです。
というか、そういう学生の方が多いはず。

工科系の場合は
ものを作りたかったりするので
定型的な知識などがゴールなのではなく
あくまでも手段なわけです。

そんな連中に手段ばかり与えて頭をでっかくして
目の前にニンジンが無ければ
走り続けることはできないでしょうね。

それに耐続けることができる
というのも凄いことだと思いますけど
あまりハッピーではありませんよね。
忍耐力は大事ですけどね。