クリエイティビティとかパッションとか

創造性とか想像力とか熱意とか、そんなもんあってもテストの点数は大して変わりません。
なので、何の得にもなりません。学生のうちは。

ごく稀に学生に聞かれることすらあります。
「良いものを作るのに、そういうの必要なんですか?」
って。

多くの学生達は本気で思っていたりします。
学力と知識さえあれば良い仕事ができるって。

きっと、親も先生もそう言っているのでしょう。

その価値観で社会に出るとどうなるのでしょうね。
だまされた!
なんて思うのでしょうか。
気付かないまま行っちゃうのでしょうか。
人によっては、その価値観をひっくり返せるかもしれません。
でも、ごく少数でしょうね。

今日は卒業生と食事をして、昔の話をすることができました。
彼は私が当大学で勤務を始めた頃の学生なのですが、彼らの世代は2年生で何も無いところから活動を始めて、卒業までの3年間で…

エコラン(燃費競技)を、地方大会、全国大会含めて6回出場
Formula SAEは、オーストラリア大会2回、アメリカ大会1回、日本大会1回出場

と、かなりの経験を積んで実績を残しました。
彼らと、彼らに続く世代のパッションは、20年経った今でも現役生に何かしらの影響を与えるだけのパワーがありました。

相当苦しかった反面、他に類を見ないほど濃密な経験をできた時期でもあります。
彼らの成長の速度は、今ではとても考えられないほど速くて、恐らくこの活動をしなかった学生より10年は先を行っていたと思います。これは決して大げさな表現ではありません。

対して、今の夢工房の学生達はどうでしょう。

もちろん頑張っています。
真面目で良い子です。

初期の学生達は、狂ったように頑張っていました。
そして、真面目な良い子ではありませんでした。

時代や環境の違いは当然あるのでしょうけど、その辺のことを考えて泣き言を言っていても何も変わりません。

同じ人間なのだから、やり方は違ったものになったとしても、発することのできる熱量や創造性の総量は変わらないのではないだろうかと思うのです。

昔と同じことをして欲しいわけではないのですが、彼らが持っているポテンシャルを、一杯一杯まで、本当の限界にぶち当たるまで発揮したら、もっともっと凄い経験ができるはずです。

そのトリガーとなるものは何なのでしょう。
リミッターとなっているものは何なのでしょう。

そんなのは簡単には分からないでしょうし、そういうのを命令してやらせようとしたら、身も蓋もないのですが、そういったことを思い悩んで色々試すのが私の仕事なのですよね。

教育って何だ? バラしちゃダメでは?

技術系の教育では色々やります。
力学とか材料に関するものとか、製図や実験、実習、もちろん語学なんかも。
ただ、企画系のことはやりませんね。与えられたタスクを消化するためのことをやります。これはつまり、言われたことをやるためのことだけだったりするのですが…。

要は、ものづくりに必要な知識とか経験をバラしたのが各授業なわけです。
そもそもは、ものづくりに必要な知識や技術を効率よく習得するためのシステムだったはず。
そうやってバラせば、それぞれの分野に特化したレベルの高い教員を配置することもできるでしょうし。

しかし弊害もあるわけで、バラしてしまったがために、各科目間の結びつきが不明瞭になってしまうのは大問題。

例えば、図面を描くスキルは重要だったりしますが、そもそも図面って何のために、誰のためにあるの?ってところが曖昧になると、「良い図面」って何なの?という話になるでしょう。
物を加工するのだって、座学の知識も同様です。

何のためにそれをやるのかが明確でなければ、何をどこまでやるべきかも分かりませんし、そもそも動機が無いのに一所懸命やるのは難しい。
むしろ動機が曖昧のままで一所懸命できる人って珍しいのではないかと思います。

そんなことを考えると、レーシングカーとか惑星探査機を作って、コンペティションで勝つぞ!なんていうのは、とてもシンプルな動機付けとなります。

どうしてもそれを実現したいなら、そのためのことを考えて、必要なものを手に入れようとするでしょう。

企画したり、設計したり、作って試したり。
そのために必要なことを手に入れようとするし、各プロセスが何のためにあるのか、どうあるべきなのかを考えるようになります。

分かりやすいところで言うと、材料の選定や強度計算がプアな、ヘボい図面を描くと、作るときにどうなるか、使うときにどうなるかなどを身をもって知ることができるわけで、そうやって手に入れた知識や経験は、単品の座学の授業では得られないものですし、恐らく決して忘れません。
座学の授業は、テストが終わったら忘れちゃうもんね。

とはいえ、多くは大学に入ってくるまでバラバラな学びの経験しか無いわけで、大学に入ってすぐにやり方とか価値観がスイッチできるわけではありません。
加えて、今はコロナ明けで技術やスピリットを含めた諸々の継承が途切れた時期でもあって、色んな意味でリスタートの最中です。

なかなか厳しい時期ですが、だからこそ!ですね。

教育って何だ? 本当はダメじゃなかったりするんじゃないの?

東京電機大学は、単なる学力で言うなら中堅といったところでしょうか。
なので、基礎科目が得意で大好き!という学生は多くありません。
ウチは技術の学校なのですから、実践力を求めている学生が多くて、実際に技術を武器に社会で活躍している卒業生は多いのです。

で、そんなこんなで就職は良いです。今のところは。とはいえ、気を抜いたり手を抜いたりはできません。

ちなみに「技術」はモノに結びつくものです。技(ワザ)やら術(ジュツ)やらです。
もちろん「知っている」ことは重要ですが、知っているだけであれば、それは「知識」です。

一般的に、学校で勉強ができないとダメだという評価を受けるけど、本当にダメなわけではなかったりもします。
ある特定のものに対して特定の条件下で力を発揮できないだけだったりして、そういうのは別におかしなことではないですね。

実際のものづくりでは、「知る」「考える」ってところから、それを元に形にする「やる」「つくる」というプロセスまで、はたまたそれを「試す」とか「評価する」とか「改善する」とか、一連の流れがあるわけです。しかも解答はありません。
もし、それらのうちのどれかが得意だったりするのなら、それで突き抜けちゃえば良いのです。

そして、実際に目的のある最終形態がゴールとして設定されているなら、そのために必要なことに対して一所懸命になれたりするのも良くある話です。

いくら技術系の学校で学ぶとは言っても。多くの場合は目的が曖昧なままで、非常に限定的なフィールドで限定的なことをやっているだけだったりして、その動機付けが十分じゃない状態での尺度で能力を測って、その結果をもってダメってのはどうなのかな?と思います。

そもそも数字の評価って、現場に出たらそれほど意味無いよな、とも思うのですが。