動力の話 その1 動力源としての家畜

クルマなどの乗り物に限らず、我々の生活は様々な動力に支えられています。
これからは電気だ、だの、そうではないだのありますが、これまでの歴史を見直すことで、色々分かることもあるでしょう。

「動力」というと、一般的には我々人間以外によるものを指します。
そのの歴史をたどると、蒸気機関やモーター以前は、家畜が最も主要な“動力源”でした。
馬、牛、ロバ、ラクダなどが農業・運搬・製粉・灌漑などあらゆる場面で使われていました。

しかし、家畜という“生き物”を動力源にすることには、技術的・経済的・社会的に多くの制約と問題があり、現在ではある程度エンジンなどの”人工動力”に置き換わってきています。
今回は、その移り変わりを前提として、家畜による動力の主な問題点を挙げてみましょう。

まずは性能面です。

出力が小さい:
馬1頭の出力は1馬力です。正確には、約0.7〜1.0馬力(約0.5〜0.75 kW)ですが。
ちなみに、蒸気機関は数十〜数百馬力を容易に出せました。

持続時間が短い:
疲労・体温上昇・脱水などで長時間連続稼働ができない。

安定性が不十分:
天候や体調、機嫌などに能力が左右されたり低下したり。加えて、言うことを聞かなかったりして制御性が低い。
つまり、動力としての「安定性」「再現性」「拡張性」が欠けていたということです。

次にコスト面。

食料と水が必要:
1頭の馬で1日あたり10 kg以上の飼料と数十リットルの水を消費します。
特に都市部では飼料輸送コストが高く、維持が非効率。
労働より維持費が上回ることもあったようです。

繁殖・調教・世話が必要:
労働力として使えるまで数年かかる。人手も必要。
これもコスト要因ですね。

つまり、“燃料”が高くつき、“メンテナンス”にも人件費が必要な動力源だということです。

そして環境・衛生問題。

排泄物の問題:
大都市では馬糞・尿の処理が深刻化。
19世紀末には「馬糞危機」と呼ばれる都市衛生問題が発生。
感染症・害虫も問題になりました。
ロンドンやニューヨークでは、蒸気や電気の登場は“衛生革命”でもあったそうです。

家畜に関してはこんなところでしょうか。

人の言うことを理解できず、制御性が悪いという問題は、奴隷を使うことにより解決した面もあります。
人の言うことを理解でき、ある程度複雑な作業にも対応できますので。
一人あたりの動力は小さいですが、人数を集めることによりある程度は解決できたりもします。
今の価値観から見ると、倫理的に問題があり、残酷ではありますが、歴史上の事実であり、現在も完全に解決できたとは言い切れない問題でもあるでしょう。

というわけで、まずは初期の動力としての家畜の問題点を中心にお話ししてみました。

続く

新しい時代は混乱とともにやってくる

何やら世界的に混乱の予感がしてきましたね。
ただ、そういったことは今に始まったものではなく、周期的に発生するもののようです。
過去にも恐慌やら戦争やらはあったわけで。

ただ、そんな中にも気付きや学びはあります。

フェイクな情報や脅迫は、ディールのための武器になる
それは昔からあったことだし、事の大小の違いはあれど実は日常にも潜んでいることです。
カオスな国のお土産屋さんなんて、そんなのが日常だったりもしますしね。

ただ、それを国家間でやるとかなり困ったことになるのですね。
いやぁ、勉強になります。

正しいものではなく、強いものが正義
実はそれはずっと昔からそうだったのですけどね。
戦争なんて善悪の問題ではなく、勝った者が正義となるわけで。

でもそれが世界標準になってくると、昔からあったことでは済まされません。

今回言いたいのは、そういった混沌としたバトルの価値観に合わせていこうぜ!ということではなく、そんな中で我々はどう振る舞うべきなのかというのを考える機会が来たのではないだろうか?ということなのですよ。

以前、「余裕」について記事にしましたけど、こういった混沌とした状況になる理由は、やはり余裕が無くなってきたからなのでしょうね。

そういった一見厄介な状態が物事の見方を変えて、大きな価値の転換点となるのかもしれません。
かつての混沌とした時代で何が起きたかというと、革命やら改革です。
要は、大きく変わる前段階として混沌の時代があるということです。

民主主義だって、資本主義だって、人類誕生より前にあったものではなく、後に作り出されて、徐々に形が変化してきたわけで、もちろん今後も変わったり消えてなくなったりする可能性はあるわけで。
ひょっとしたら新しい形の文化が生まれる前段階がやってきたのかもしれません。

どうしようも無い行き詰まった状態になれば、変革を嫌う人だって変わらざるを得ません。

この状態の明るい面を見るなら、これから理想的な状態へ移行するサインみたいなものと捉えても良いのかもしれませんね。

で、どうしましょうか?
混沌の中で、我々が目指すべきゴールは何か?

混乱に乗じて一儲け…
ではありません。
そんなことをするから混乱するのです。

こんな時こそ道徳だと思います。
「得」じゃなくて「徳」です。

徳があるところに本当の価値がある。
もちろん金銭の問題ではなく、それを超えた価値です。

時代は巡るわけで、きっとこの状態は我らの先人がかつて通った道。
その時彼らはどうしていたのか?
そんなことを振り返ってみるのも良いかもしれませんね。

時代は巡るのだ

当然のことなのだけど、忘れられ、意識されていないこと。
資本主義だって、自由主義だって、政治だって、経済だって、人が考えたシステムは完璧では無いし、絶対的なものでもない。
地球の歴史、人類の歴史から言ったら、誤差みたいについ最近に誕生したもので、いずれは終わり、きっと新しいものが生まれる。

成長していずれ滅びる、それは必然。
今あるものの終わりは、楽しいものになるかもしれないし、辛く悲しいものになるのかもしれないが、新たなものが生まれるためには必然のプロセス。

この世の全ての物事は移り変わってしまい、一定では無い。
終わりの時、変化の時はいずれ必ず来る。
そして今現在もそのプロセスの途上にある。

変えたくないし変わりたくない
現状に拘り、とらわれてしまって無意識で自然とやってしまうのだけど、そのとらわれる心が恐れとか苦悩を生むわけで、それによって変わりたくない気持ちが強化される。
でも、そこにとらわれているうちはループから抜け出せない。

どうせいずれは変わらなければならないのだから現状に執着するのは無駄なことで、とらわれから解放されて自由にならないと明るい未来には行けないのでしょうね。

あとは、待ちの姿勢で変化を受け止めるのか、それとも自ら掴みに行くのかの選択も大事。
それは自分次第だけど、その思いや気持ちに気持ちによって未来が変わるというか、決められるものでもある。

そういうの、分かってはいるけど、いざやるとなると難しいことですよね。

と、そんなことを考えていると、仏陀は良いこと言うよなぁ。凄いなぁ。なんて思うのです。

諸行無常とか、色即是空 空即是色なんて、まさに真理ですよ。