理系だの文系だの…それ以前に 後編

「苦労したくない」かぁ。
まぁ分かるんですけどね。

この場合の「苦労」って、学生のうちは自分の成長に関することとか、卒業後に世に出た後のことを想像してのことでしょう。
逆に想像できないから、というのもあるかもしれません。

いずれにせよ、苦労は自他の関係から来るもので、そこが重要なところ。

学校で学ぶのは、将来のため。
というか、若いうちの経験って、そのほとんどは将来に繋がること。

そういった経験は何に使われるかというと、将来の仕事とか人間関係とか、自分が発する価値の大きさに繋がるわけです。

苦労は、行動する先にある、将来活かすことができる経験を得るプロセスにおける心身にかかる負荷ですよね。

「苦労したくない」ということになると、自分が発する価値の大きさを最小限にすることに繋がるでしょう。

現状は
プロセスがイヤだから、その先にあるものを掴みに行けない
そういう状態になっているのではなかろうか。

ましてそれが外的な動機、つまり押しつけとかだとなおさらでしょうね。
自分が掴みたいものではなく、他から課されたものなら仕方ない気もします。

もし現状が、そういったことになっているのであれば、やはり「やらせる」「やらされる」という環境が支配的になっていて、もうウンザリしているのかもしれませんね。

やりたいことを苦労もいとわず全力でやって、その先にあるものを掴む喜びを経験するチャンスがあまりに少ないというのが、この状況を作っている原因なのでは?

あともう一つ。
自分が構築した価値を発信して、それが他に影響を与えたときの面白さというか、幸福感を味わう機会があまりに少ないのではないでしょうか。

そういった経験があれば、苦労をいとわずにゴールを目指すことができるでしょう。
でも、そんな経験をできるチャンスがあまりに少ないのが現状でしょう。

いずれにせよ、若い世代が苦労を避けることを最優先にしてしまうとエライことになります。

これからの世の中を作っていくのは彼らです。
その彼らが他に対して高い価値を発揮できなければ、明るい未来は望めないし、彼ら自身もハッピーになれません。

人はどんなに負荷が減っても幸福にはなれないのです。
一時的に安心はするかもしれないけど。

しかし、他から感謝され認められて、自身の存在に価値を感じられれば幸福感を感じられるでしょう。

そうなる課程には労力が必要です。

とはいえ、好きでもないことをやらされる環境では限界がある。

というわけで、どうせやるなら自分が好きなこと、得意なことでイキイキとチャレンジして自身の価値を高め、他に大きな価値を提供できるようになるのが理想だよね、と思うのです。

人はいつまでも同じではなくて、そのうち気付きを得て変化するときが来たりするので、あまり悲観的になる必要も無いのかもしれませんけどね。

でも、環境を作る側も、偉そうなことを言うばかりでなく、チャレンジが必要ですよね。

このネタ、まだ続きそうです。

理系だの文系だの…それ以前に 前編

理系だの文系だの言うのはあまり好きじゃないのですけどね。
というのも、社会はそうやって明確な区分けをされているわけではないから。

エンジニアだって文系や美術系のセンスやスキルを要することがあるし、事務職だって数字をいじるし。

でもまぁ、教育をする上では、分けちゃってどちらかに特化した方が効率は良いのでしょうね。

で、最近は理系離れが進んでいるようですね。
全然気にしていませんでした。反省。

理系は難しくて大変だというイメージがあったり
自分らしく、苦労せずに生きる方法を模索する若者が増えているのだとか。

ほうほう、そうですか。
これが全てではないでしょうけど、ネタとして面白いので、その方向で話を展開してみましょう。

まぁ、私が学生の頃も同じようなこと考えてましたけどね。

実を言うと、高校生の頃は理系科目より文系科目の方が得意でした。
でも、理系的なことの方が好きだったのです。
得意じゃないけど、好きだからそっちを選ぶ。
変でしょうか。

好きなことなら頑張れる で、面白くなる
そのポリシーは今でも変わってませんし、それで良いと思ってます。

自分らしく、苦労せずに生きる

ってのはどうなのでしょう?
「自分らしく」というのは分かります。
せっかく生きているのですからね。
独自性とか無いとね。
ただ、何もせずとは言わないまでも、労せずして得られる独自性ってどうなのでしょうね。

で、「苦労せずに生きる」についてです。
気持ちは分かるのです。
私も大学生自分に似たようなことを考えていました。
「安定した暮らしを…」とか。

今にして思うと、なんてバカなことを考えていたのだろうと恥ずかしくなります。
別に安定をバカにしているわけではありません。
「安定」というワードが、いかに自分に合っていないかということを自覚したからです。

もし安定しちゃったら、自分がやりたいことを全くできなくなる、と言うことに気付いたのです。
そんなことになったら、全く面白くない人生になってしまう。
なので、それはあっという間に放棄しました。

自分らしく、苦労せずに生きる
なんてのは、凄く矛盾しているというか、理屈が破綻しているというか…そう思ってしまいます。

だって、多くが安定を目指したら、しかも「苦労せずに」というオマケが付いたら、皆が同じようなことになるわけで、それって自分らしいと言える状態なのか?と思うのですよ。
多くが独自の形で安定することなんてできるのでしょうか?

いや、待てよ。
独自性なんて要らないのかな?
自分らしく、苦労せずに生きる
ってのは
「今のままでいい」で、単に「苦労したくない」
ってこと?

後編に続く

得じゃなくて徳の話

自己の利益しか考えなくなると、恐らく衰退するのではないだろうか?
個人はもちろん、国家も。
それが短期的な利益となるとなおさら。

そんなことが最近気になっていたりします。

というのも、さんざんこのブログで言ってきたいるように、価値は自分が決めるものではなく、相手が決めるもの。

自己の利益を追求するのは自然なことのようだけど…。
自己の利益を直接的に追求する行為は、相手にとっては価値が無いのは当然。
そこに注力する結果、他に対する価値を発信できなくなって、結果として自己の価値が低下する。

まぁ、当然といえば当然のこと。
他の利益を考えて発信したものが、受け取る側にとっての「価値」なのだから。

他のために、という考え方、それは道徳観ですね。

道徳観が高いということは、他の利益を考えて動けるということ。
それができる人は、周囲から見れば価値のある人。

その価値を及ぼす範囲が広ければ広いほど、期間が長ければ長いほど、価値は大きい。

その価値を皆で回していけば…

道徳観が高い社会であれば衰退しないのではなかろうか。
その逆であれば衰退するのは必然なのではなかろうか。

さて、今我々はどこに向かっているのでしょう。

ああ、徳のある人になりたい。
難しく、勇気の要ることです。