比較からの解放

優劣や順位
自分の存在意義を感じたりするためには必要な感覚かもしれません。

学生は、小さい頃から順位の比較によるプレッシャーにさらされています。
それはシステムとして形づくられていて、もはやそれ以外の選択肢は見当たらない感じ。
もはやそれが常識。

で、時として思うのです。
この順位付けのプレッシャーが幸福感を感じられない原因ではないかと。

レースだのコンペティションだの言ってる人間がこんなことを思うのはどうなの?
とも思うのですが、そもそもそういったものと、学校の成績におけるものは違うのです。

レースとかコンペティションは、自分の外の領域に価値が置かれています。
他と競うことを楽しんでいたり、エンターテインメント的な要素があったり、そのために自らのパフォーマンスを高めるわけです。
もちろん学生のコンペティションであれば、それによって得たものは、彼らが社会に出た後に公共に向けて役立てることになります。

対して、授業とか受験とか、そういったフィールドの順位付けは、あらかじめ決められた項目にする限定的な能力にたいするもので、その成果の価値の置き所が内的なもの。
いずれ世に出た後に役立てられるときが来るのかもしれませんが、学生でいるうちはそういったことを実感できません。
良い成績や順位を獲得したところで、その時点では何かの役に立っている実感が得にくい。喜んでくれるのも、せいぜい身内か限られた知人くらいのものでしょう。
なので、モチベーションを上げにくい。

本当は、そういった限定的な領域での能力だけでなく、自ら自由に選んだり、創り出したりする機会があっても良いと思うのです。
だって、社会に出たらそれこそが求められる能力の一つになるのだから。

あと、競うときの形態も重要です。
一人で机に向かうばかりで無く、仲間と力を合わせてお互い伸すくれた能力を出し合ったり助け合ったり。
社会に出たら、一人にやらなければいけないなんてルールはそうそう無いわけで、むしろいかにチームでうまいことやるか、というのが大事だったりするわけですよ。

なので、チームでプロジェクトを成し遂げるような活動を、もっと重視すべきだと思うのです。

オタクの話

↑ChatGPTが想像するオタクの姿。へー。

最近ではあまり聞かなくなりましたね。
「オタク」というワード。

かつては強烈なアニメファンを指すワードとして、そこから様々なマニアを指す際にも使われてきました。

ただ、単なるマニアでは無く、一般的なというか、常識的な一線を越えたようなマニアっぷりを持つ人を指す場合が多いのではないかな。

「プロフェッショナル」は、その働きが多くに向けられる場合が多いですが、「オタク」は、価値観を共有できる少数が価値を発信する対象でしょう。

正直なところを言わせてもらうと、私はオタク的な気性を持つ人は嫌いではありません。
というか、むしろある種のリスペクトすら感じます。

それはなぜか?

彼らは常識的な一線を軽々越えてしまうパワーを持ち合わせているからです。
というか、人の目を気にしていない?
そんなことはないだろうけど、閾値のレベルが一般的じゃないのかな。

そもそもレースをやってるとか、かなりオタクっぽいんじゃないかと思うこともあります。
一般人の持つ価値観とはかけ離れた感性とか価値観とか、変な拘りとかを持っているのは間違いないでしょう。

もちろん他の分野でも、そういった気質を持っている人はいるでしょう。
そんな彼らに共通するのは、自分の好きなことのために、普通の人が捨てられない何かを軽々捨ててしまう潔さではないでしょうか。

それ、うまくいくためには必須だと思うのです。
何のために、それをどの程度の高いレベルまで高めるか。
ブチ抜けて極みに達すれば、「凄い人」と呼ばれるようになるのでしょうね。
ま、そんなものでしょう。

変わるものと変わらないもの

製造業は国内回帰するのか?
かつては工業大国でもあったアメリカが、まさにこの問題に直面しています。
果たして狙い通りに変貌を遂げることができるのか?
狙い通りにならないにしても、何かしらの変化は起きるわけで、どういった形に落ち着くのか、それにはどれだけの時間がかかるのか、壮大なチャレンジが行われようとしています。

アメリカも我が国も同様ですが、国内の製造拠点をより人件費の安い国外に移転すれば、企業の収益は増大して、消費者は安くて良いものを買えるようになります。

けど、それまで国内で製造に従事していた人は職を失うという事態になります。
アメリカの場合、年齢が低ければ、職業訓練を受けるなどしてIT系の職に就くなどして、むしろ収入が上がる例もあるようです。

が、そうでない場合も多いでしょう。
なにせ大規模な製造業には多くの人員を擁しますから、それだけの人口を吸収できる仕事が必要になるわけです。
サービス業やインフラ関係など、後は何でしょう。やはりアメリカと言えば農業でしょうか。でも、新規参入は難しそうですね。
もちろん仕事を得られない場合もあるでしょう。

対して我が国はどうなっているのでしょう?
今は過渡期なのか、それとも製造業からシフトした人の受け皿が十分にあるのか?
そもそも労働人口が不足しているから問題無い?
実感がなく、良く分かりません。
工場の海外からの呼び戻しも無くは無いようですが、こちらもあまり実感がありませんね。

そもそも、人件費を節約するために海外進出したわけで、製造を国内に戻したら単純に製品価格が上がってしまいます。
なので、むやみにそうすることもできないのでは?

それにしても、製造を海外に出してコスト低減して、会社は儲かるようになったのかもしれませんが、国民の日々の暮らしが総じて豊かになったようには感じません。
で、「暗黒の~年」とか言われているわけです。

さて、これから我が国も製造を国内に戻す方向に行くのでしょうか?
そうならないにしても、何かしらの変化が求められるでしょう。
恐らく想像よりも早く…と思っておいた方が良いです。
というのも、変化が求められてからアクションをしても、大抵はオロオロドタバタして、うまく対応できないだろうから。

いずれにせよ、かつて理想的だった状態があったとして、そこへ戻ろうとしても無駄です。

一度なくしたものは復活しないから。
技術や文化など総じてそんなものです。

やめてもまたやればいいじゃん
のようなことを考えているなら、それは大間違い。

明文化できるものはそのまま残せます。
でも、文章や音声、動画などの視覚情報で伝えられることには限界があります。
やらないと分からない経験知などは、無くなってしまったら、もう分からない。

航空産業などは分かりやすい例です。

戦後、日本は航空機の開発を禁じられたので、航空技術者がいなくなりました。
その後も防衛産業として、飛行機を作ったりやめたり。
やめる度に施設は失われて、人もいなくなります。
「またやればいいじゃん」で以前と同じように再スタートできるかというと、そんなに簡単ではないのです。

というわけで、今後の我が国に限らず、世界中が未知の未来に突入していくことになる気配があります。
そんな未来に恐怖したところで事態は好転しないわけで。
ではどうしましょう?

時代が変わって、必要な知識やスキルが変化しても、恒久的に求められるものはあります。

困難に立ち向かい
屈しない心
乗り越える心

そういったものの重要性は、いつも時代も変わらないでしょう。
何事も始まりは「心」からです。

できればそういったものを、楽しさとか好奇心を動機として構築していけるとハッピーですよね。
なので、今のうちに好きなこと、楽しそうなことでチャレンジしておくと良いと思います。
その経験は近い将来、きっと役に立ちます。