OJTって知ってるかい? 2

1年前に記事にしましたが、OJT再度登場。

自身の仕事のコントロールをしたり、リスクのマネジメントをしたりするのは大事なことです。

知識を手に入れるのも大事ですが、そもそもこういった能力を身に付けることの方が優先されるべきだと思っています。
そうやってプロジェクトを推進していく過程で、必要な知識やスキルを手に入れる。
それがいわゆるOJT(On the Job Training)です。

ですが、仕事を遂行する上で「やりながら学ぶ」のが、そもそもの教育だったはず。
それは世に「学校」というものが現れる以前のこと。

「きっとこういったものが必要になるだろうな」という予想の上に、あらかじめ知識を身に付けておくのが学校の役割。
やらないけど、知っておくことも重要でしょう。
引き出しが多いのは良いことです。

でも、「やる」と「知る」が離れすぎてしまったがために、なぜ、どれくらい知っておく必要があるのかという根本的な部分が薄れてしまった。

恐らく、教育の効率化を追求することによって、知識の「汎用化」が進んだためではないかと思います。
色々なことに使える知識を色々身に付けたら、色んな仕事に就いても、そこそこ通用するじゃん
だったら、汎用的な知識をガンガン詰め込んだら、何でもできるマルチ人間になるんじゃないか?(それを「潰しがきく」とも言う)
ということでしょう。

ただし、そのトレードオフとして、必要性の実感とか、実践とかを失ったのではないでしょうか。
結果として、「言われないと動けない」とか、「知ってるけどできない」とか、とても中途半端な状態になっているのではないだろうか。

さて、OJTですが、やりながら学ぶのですから、「何のために?」は明確です。
知識がすぐに使われるので、どう実践するかとか、どうなるか、はとても良く分かります。
もちろんモチベーションは維持しやすい。

そういった経験をしていると、「きっとこういったものが必要になるだろうな」などの予想を自分で立てられることです。
勘や嗅覚が磨かれるってことですね。

そうやって手に入れたものは、テストのために暗記した知識と違って、そう簡単に忘れることはありません。
だって、本当に必要性を感じた段階で手に入れたものだから。
そして、実際にそれを使う経験をするのだから。

一度自転車に乗れるようになると、何年も乗らなくても再度乗れるというのと同じです。
自転車の乗り方を解説書で読んで暗記しても、そもそもそれは、「自転車に乗れる」ということですら無い。
そして、実際に乗る必要が無く、乗ったことさえ無ければ、恐らくそのうち忘れてしまうでしょう。

夢工房で活動する学生達は、まさにOJTに日々学んでいるのです。

将来、クルマの開発がしたければ、学生のうちからガンガンやればいいのですよ。
その中で、企画やら設計やら力学やら材料やら加工やら…
必要なことを身に付ければ良いのです。
何だって手に入るし、それはいつでもすぐに使えるリソースになります。

もちろんそれは技術的な知識やスキルに限らず、アイデアの出し方、困難の克服方法、チームワークや、果てはメンタルのコントロール方法まで、実に様々な経験知が得られます。

こんなふうに成長するのが、本当の「潰しがきく」ってことだと思うのですけどね。
だって、学校で知ったことで、そのまま仕事ができるわけではないですから。

「能力」って何だ?

そもそも「能力」って何なのでしょう?

辞書を引いたりネットで検索すると色々出てきますが、私はシンプルに
可能にする力
だと思います。

というところで、改めて意味を調べてみましたが、あながち外れてはいませんね。

学校は、能力を身に付けるところ
とされています。

ですが、それは知識の獲得に偏重しています。
そして、知識の獲得とは言っても、暗記するようなものがほとんど。

何度も言いますが、知識は重要です。
でも、「知っている」と「できる」は違います。

そもそも、自ら掴みに行くのではなく、何に使うか実感が無いまま、皆が同じことを記憶しなければならない。
そういった状況で、多くは疲弊してしまう。

知識は、言ってみれば道具のようなもので、「可能」にするために必要な要素の一部です。
精神面の駆動力たるメンタルやマインド、モチベーション、これが無いと起動しません。
そして、当然ながら物理的な駆動力であるフィジカル、これが無いと実行や継続が不可能。

これら全てが無いと「可能にする力」になりません。

知識もスキルも、必要性を感じた時点で手渡すのが最も効率が良いはずだし、自ら掴み行けばそれが最善。フィジカルも必要性を感じれば自ら獲得するでしょう。
なので、メンタルやマインド、モチベーションを高めるのが最重要だと思います。

しかし、本人の意思とは関係なく、多くの知識を詰め込むようなシステムになっているのが現状でしょう。
そういったやり方で、心が疲弊していくなら「できるだけ楽をしたい」と思うのは当然かもしれません。

今後の日本は少子化に伴い、労働人口が減少していく。
今までのような、高度経済成長期のような、低コストの大量生産は継続できません。
となると、量ではなく、質・信頼・速度などを付加価値として、それを優位性・独自性となるレベルまで高める必要があるのは明白でしょう。

それは、低いモチベーションで、皆が同じことをするようなやり方、やらされるやり方では達成不可能だと思います。
それには、パッションやアイデアが不可欠だから。

ならば、各人がそれぞれ個性を発揮して、強みを伸ばす方向性。
それぞれが自信を持って「可能にする力」を身に付けられる環境が必要です。

自己を高めるということ

皆と同じようなことができなければならない
そう思うのは自然なことかもしれない。

しかし、それが才能とか資質を殺しているかもしれない
というお話しです。

皆と同じことができなければならない
他と異なることをしなければならない
そんな二つの矛盾の狭間に若者達(年長者も?)は生きています。

製品の開発者やアーチストなど、プロになってしまえば、さほど矛盾に悩むことは無い。
業務の内外で使い分ければ良いから。

レーシングカーを作っている学生などは

「そんなことに夢中になるのはいいけど
学生の本分は勉学なのだから」

と言われることがあるでしょう。

一体、何のための勉学なのか?
他と同じことをすることが勉学なのか?

差別化、競争力、独自性、優位性…

そういったものが必要ならば、何も他と同じでなくても良い。
むしろ、同じではダメだ。

皆が同じように、決められたことができなければならない
そういったことを欲する人もいるでしょう。

そういう前提であれば
「劣っているところを持ち上げる」
といったこと、マイナスをゼロにするようなことが必要でしょう。
そういうニーズに対しては、それが成長として必要なことなのかもしれない。

しかし、できること、好きなこと、得意なことを強力に伸ばしていく
それも成長なのですよ。

もし、高みを目指すなら、それら二つは、恐らく階段のように連なるものではない。
マイナスをゼロにしてからその先へ…
そんな風にできるのが理想なのかもしれないけど、そうはいかない。
大抵は、マイナスにフォーカスし続けてモチベーションが下がる。

いずれか一つを早期に選んで、強力にプッシュしていく。
今こそ、こうして自己を高めていくことが必要なのではないだろうかと思う。

その根拠?

そんなの簡単で、これまでのやり方の結果が現在なわけで。今の社会の状態ですが。
これは「やり方」よりもむしろ「方向性」の問題だと思うのですよ。
「内容」よりも「システム」かもしれないし
「知識」よりも「考え方」かもしれないけど。
そうしたらこうなりませんか?