失敗や分からないことは悪いことじゃない

経験が無ければ仕方ないのかもしれませんが。

失敗すると怒られる
失敗すると恥ずかしい

分からないと怒られる
分からないと恥ずかしい

そう思ってしまう環境はありますね。確かに。
何なのでしょうね、これ。

一人で何かをやっているときは、そういうことはありませんよね。
まぁ、一人ですからね。怒られるわけはない。
そして、恥ずかしくもない。

怒られるのはなぜ?

相手の意にそぐわない場合かな。
まぁ、人に迷惑を掛けるのは論外として。

恥ずかしいのはなぜ?

他に対して劣っていることが明確になるから、かな?
相手がいなければ恥ずかしくないですから。

ま、それはそれとして。

この「失敗」とか「分からない」を、どう処理するかによって、キミの成長の度合いはもの凄く変わってくる…ということに気付いているだろうか?

これらが、恥ずかしいとか悲しいとか、ネガティブな感情に結びついてしまうと、その先はどうなるだろうか?

「もうやりたくない」
せいぜい良くても
「できればやりたくない」
かな。

何を「やりたくない」かというと、原因になった行動ですね。
そう、チャレンジです。

そこで負けん気が発動する人もいます。
それはそれで素晴らしい。

そうじゃないデリケートでナイーブな人は、どうしましょうか?
まぁ、経験が十分じゃなければ、みんなそんなもんですけどね。

相手に対して怒るとか笑うとか、それは何をしたいかというと、早い話マウント取りたいのですよ。優位性を示したい。
動物的な本能なのでしょうね。
なので、ある程度仕方ない。
だって、自然にやっちゃったりするから。

それに、リアクションをする相手は選べなかったりすることも多いです。
なので、その辺は諦めるか、環境を変えるしかないかもしれない。

でも、一番良いのは自分を変えることです。
相手は変えられないし、環境を変えるのは難しい。

さて、自分の何をどう変えたら良いか?

ズバリ、価値観ですよ。

失敗した

これは、「こうやったら、こうなる」が分かったということ。
これは、やった人にしか分からないことです。
良かったじゃん!

分からない

これは、「自分はこれが分からないのだ」ということが分かったということ。
分からない事が分からない人は沢山います。
良かったじゃん!!

不幸なのは
何をやったらどうなるか分からないということ。
分からない事が分からないままであること。

開発の仕事をしていたとき、一緒に仕事をしたくないのはどういう人か?

それは
失敗したことがない人
です。

そんなヤツと仕事をしたら…と考えると、ゾッとします。
開発はチャレンジなので、失敗します。
最終的に要件やら要求を満たす必要はありますが、そのためには、やったことが無いことに挑戦する必要があるからです。
失敗する度に思考停止したり、悲しみの淵に沈まれたらたまりません。

幸いにして私の場合は、周囲にはチャレンジャーが沢山いたので、楽しく仕事ができましたけどね。

問題と解決について

学生を管理する側は、問題が発生することを嫌がります。
なので、できるだけ問題が起きないように努力します。
当然ながら、学生は問題に直面する機会は最低限になります。
そして、問題に対する印象は良くありません。
問題に対峙した経験が少ないと、いざ事が起きたときに思考停止したりします。

当然ですが、ここで言う「問題」とは、テストの問題ではありません。
まぁ、学生にとっては、そっちも重要でしょうけど。

でも、問題を解決するのは重要なことです。

ここで言いたい「問題」は、自分が為すべきこと、為したいことに対する障害や不足です。
チャレンジの結果として発生したりするものです。

チャレンジの結果、問題が起きると、心がネガティブ側に振れてしまう?
ビギナーならありがちかもしれませんね。

しかし、問題が見えたこと自体が収穫なのです。
問題を解決すると、間違いなく改善するのですから。

問題が見えたということは、チャレンジできたということでもあります。

さらに、問題に向き合っていると言うことは、解決する意思があるということですし、解決する度に成長できるのですから、得したとも言えます。

開発職に限らず、仕事をしていれば何かしら問題は起きます。
問題を解決した経験があれば、その時必ず役に立ちますし、自分の存在価値が確立されるのはそんな時です。

面倒だけど、面倒だからこそ価値があるのです。
なので、価値観が問題に対する向き合い方と結果を決めると言っても良いかもしれません。

というわけで、問題は決して悪いことではありませんよ。
というのが今回言いたかったことです。

でも
そもそも問題が起きない方法はないのか?
という考え方も大事ですけどね。かなり。

戦争から学ぶ 戦略的思考の構造の続き

前回は飛行機を例にとりました。
しかも、その機能とか装備に限定した話です。

機能や装備を含んだ飛行機そのものが、一つの具体的な「技術」とすれば、それをさらに大きな枠でとらえることができます。

「技術」の一つ上の階層が「戦術」です。
飛行機に搭載した兵器でドッグファイトするなんていうのは「戦術」でしょう。
飛行機や搭載する兵器は、その戦術に必要で、そのために開発されます。

「戦術」から上の階層は、「作戦」、「戦略」となっていきます。
その階層では、もう飛行機単体の話ではなく、もっと大きな組織的な話になります。

さらに上にあるのは、「政策」で、この階層では、そもそも戦争をすべきか否か、やるとしたら、どういった戦い方にするか、「情報」とか「経済」で蹴りを付けるか、実際に戦闘すべきかという判断を含みます。

さらに上位にあるのは…
自国をどうしたいとか、他国との関係をこうしたい、というビジョンでしょう。

昔々の原始時代は、それこそ腹が立てば殴るとか噛みつくとか、そういう直感的で短絡的な行動だったのでしょうけど、時代を経て、戦いも高度化していきます。

というか、戦争を例に挙げるとこのような、おどろおどろしい話になってしまうのですが、基本的なロジックは単純です。

願いを実現するための考え方
なのです。

戦争は、趣味とか道楽ではありません。
命がかかっているので、できればやりたくない。
正常な人なら誰だって死にたくはないし、殺したくもない。

しかし、どうしても回避できない場合
勝ちたいとか、負けたくないとか願うわけで、それを実現するための一般的な考え方が、今回お話しした階層状の思考です。

でも、今回の話、本来考えるべき方向と逆にお話ししたのがお分かりでしょうか。

具体的な兵器を作るから戦争になるのではありません。
戦争に必要だから兵器を作るのです。
…基本的には。

世の製品も同様です。
「こんなのがあったらいいな」と、製品が果たす役割を考えておき、そのために作るのです。

学校などでは、理解の都合上、基礎と称して具体的な細かいことからやっていきます。
しかし、実社会では逆です。

そもそも最初にあるのは、最終的なビジョンです。
結局どうしたいの?ということです。
最初なのに最終というのはややこしいですが。

想像力って大事なのです。
でも、想像力をどう使うかは自由です。

素晴らしいことにも使えるし
恐ろしいことにも使えます。

そもそも素晴らしいとか恐ろしいなんて、時代によっても違うでしょうし、価値観によって様々でしょうけど。

だからといって、想像しなければどうなるか?

それはそれで恐ろしいことなのかもしれません。