ストイックという戦略

我々の持っているリソースには限りがあります。
時間とか、体力や気力、お金なんかもそうですね。
時間なんかはどうしようもない。絶対増えない。
能力的なものは、鍛えれば少しずつ増えるのだけど、それにも限界がある。
まぁつまり、全て限界があると考えるのが良いでしょう。

で、それらリソースをどう使うか。
それが問題です。
何にどれだけ力を入れるかってことです。

で、ですよ。
このリソースの配分について、どれだけ考えていますか?

もっとも、そのためには「何のために?」という目的があるべきなのです。
それがリソース配分の動機になりますから。

何のために、どうするの?
ということです。

「何のために?」は目的、ゴールです。

将来どうなりたいの?
その望む世界で、どのような価値を持つ存在になりたいの?
ということです。

「どうするの?」は手段です。

知識やらスキル、学校での学びは手段です。
それは目的のためにチョイスされるべきものです。
それらは、言ってみれば道具みたいなものですね。

で、その道具みたいな「手段」ですが、何を手に入れて、どう使うのかは、目的によって決まります。

とまぁ、そこまでは誰しも考えて行動していると思うのですけど、それを戦略的にやろうというのはあまり無いかもしれません。

だって学校は、課されたものをまんべんなくこなす必要があるから。
好きなものに対して、ある程度は執着できますが、その他を犠牲にするほどのやり方は許されません。
留年しちゃいますものね。

しかし、それをストイックに追及できたら、普通じゃない強みを持てる可能性はあります。
まぁ、これは良くある話ですよね。
いわゆる得意科目とか、特技とかです。

他には、「単品」ではなく、特定の組み合わせを強みとするという戦略もあります。
何も特定の何かに特に秀でていなくても、普通じゃ持てないような組み合わせで強みを発揮するってことです。
それに対して、ストイックに追求するのもアリでしょう。

いずれにしても、それらが目的に向かって駆動されていることが重要です。
何のために、どうするの?
が明確になるように。
もちろん自分の意思でね。

これ、言ってみればチャレンジですね。
そして、そこで得られる気付きこそが学びになるのだと思います。

ストイックに何かに取り組むのは大事なことです。
その結果がどうあれ、その経験は決して無駄になることはありません。


人は何に向かっていくのか

念のため最初に言っておきます。
別に何かを気に病んでいるわけではありません。
いつも通り、ちょっと思い付いちゃっただけです。

さて、今回のテーマは、「何のために生きてるの?」という話でもあるのですけど。

一見、重いテーマのようですが…実際重いですね。
でも、あまりシリアスに考えずに
「自分は一体、何のために何をしたいのだろう?」
と考えてくれれば良いです。

何のためなのでしょうね。
どう思いますか?

たぶんこれ、自由なのでしょうね。
当たり前ですけど。
他人に決められるものではない。


決められても良い。
自由ってそういうことです。

ただし、自分の意思ではなく、他に自由を奪われてしまうケースもあります。
それは大変不幸なことです。

いや、それは断言できないか。

自由を奪われたいケースもあるでしょう。

まさか、そんな!
と思いますか?

そうでもないですよ。

例えば、拘束されて、何かを指示されてやっているとき
内容にもよりますが、負荷が課された一方で、安心感があったりすることもあります。

「これだけやってんだから大丈夫だろう」
みたいな。
確証は無かったりするのですけどね。

まぁ、それはそれとして

「自分は一体、何のために何をしたいのだろう?」
です。

これ、答え無いですよね。

なので、勝手に決めちゃって良いのですよ。

しかし、誰かに決めてもらう、というか、決められちゃうこともあるでしょう。
そして、それに従うこともあるでしょうし、従わないこともあるでしょう。
それも自由。

で、結局何が言いたいかというと
「自分は一体、何のために何をしたいのだろう?」
これは「夢」なんですよね。
行動力の得源泉というか、動機というか。

何のために何をするか

それを自分で決めたい人もいれば
決められない人もいる。
それは能力云々ではないのです。

でも、自分で勝手に決めちゃった方が楽しくないですかね?
楽しい方が色々うまく行くし
「これは違う」と思ったら変えても良いわけだし。

「別に楽しくなくていいよ」
というなら仕方ないですが。
それも自由ですから。

ここまで書いて思ったのですが
間違えたり、失敗したりすることを単にリスクととらえて
それを回避することをゴールに据えてしまうと、なかなか難しいことになりそうですね。

ただ、間違えとか正解とか、そういうのは他人が決めているわけで、そんな他人が決めたことに、どれほど価値があるんだ?と思っちゃうのですけどね。

教育はどう変わるか?

大きな教室で、皆に同じことをやらせるのは、これからの時代にそぐわないのではないか?
なんて思うのです。

いや、ちょっと違うな。

大きな教室で、皆に同じことをやらせる
これはあって良いと思う。

それとは別に
少人数で皆で力を合わせて、好きなことをトコトンやる
そういうのも必要だ

ということかな。
自分に合った方を選べば良いと思うのです。

そんな二つの選択肢があったら、みんな好きなことをやりたいに決まってるじゃん!

そう思いますか?
多分、そうでもないですよ。

好きなことをトコトンやる
という道を選ぶと
好きでもないことは犠牲になります。
要は、好きなことを選んで、自由を得た代償は発生するということです。

そして、尖った能力を身に付けなければならないということになります。
まぁ、「身に付けなければならない」というと聞こえは悪いですが、そういう風になりたいと思う人が、そういう道を選ぶ自由があって良いと思うのです。

繰り返しますが、代償は発生します。
自由に決めて、好きなようにやる
形にするためにはトライ・アンド・エラーが必要。

これは、自分で決めなければいけないし、できるかどうか分からないことに挑戦するということです。
それをメリットと感じるか、デメリットと感じるか。

では
大きな教室で、皆に同じことをやらせる
という環境は、無難で代償が無いのか?
というと、そうでもありません。

まず、自分でゴールを設定する能力は低くなりそうです。
そりゃそうです。
常にゴールを設定するのは指導者で、課題を与えられる立場ですから。
逆に、そういったことを考える必要は無いということでもあります。
それをメリットと感じるか、デメリットと感じるか。

自発的にチャレンジしてくれる人も、オーダーに対してキッチリやってくれる人も、世の中には両方必要です。
前者と後者を比べて優劣がどうの、という問題ではありません。
結局、自分は社会でどういう役割を果たしたいのか?
ということなのです。

現在、高校も大学も、自分で学校を選んで行っているわけですが、行った先では
「やっている」というより
「言われたことをやらされている」というのが現状でしょう。
「自発性」と言ったところで、言われたことに対して予習するとか、その程度です。

そういうやり方では、払うリスクは最低限でしょうけど、得られるものは均質でソコソコになります。
価値観にもよりますが、それこそがリスクだ、と思う人もいます。

でもまぁ、完全にどちらか一方ってのも無いとは思いますけどね。

さあ、果たしてそのままで良いのか?
多分良くないですね。