彼らはどう変わったか2

前回の記事では、遠征を契機に彼らに訪れた変化として「積極性」を挙げました。

こういうのって、口頭で伝えて理解はできると思うのです。誰でも。
しかし、その意図するところと言うか、実際のシーンのイメージまでは伝わらない。
つまり、こちらが期待するレベルについては、本人達には経験が無いのは当然で、そんなものは伝わらないのです。
まして、リスク回避のための判断と行動が習慣になっていた場合はなおさらです。

それに加えて、今回挙げたいのは「自分がやるのだ」という感覚です。

これ、一般的には「自主性」と言われることに相当します。
意味は、やるべき事、つまり「枠」のようなものがあらかじめ決められていて、それに対して、言われなくてもできる、ということです。

それに対して、そもそも何のために?何をやるべきか?というところから考えて動けるのを「主体性」と言います。
今回は、この領域に少し踏み込めたかな、と思います。

その程度は当たり前じゃん!

と思いますか?
しかし、教育システムがガッチリ定型化している昨今では、そんなの当たり前…ではありません。

考えてもみて下さい。
学校で学生がやることのほとんどは、あらかじめ正解が決まっていて、それを解くように指示されて動く。
それを自主的にやる者が評価されたりします。
そもそも、指示に対する意味を考える余地なんて無いのです。

なので、指示されたわけでも無いのに、準備が不十分な状態で、ジャッジに設計やコストに関する工夫について、自ら考えて説明する、なんてのは上出来なのです。

当人達にしてみれば、追い詰められた状況でベストを尽くしただけなのかもしれません。
しかし、追い詰められた状況で、果たして誰しもがベストを尽くせるかというと、そんなことは無いわけで。
今回、その点については確実に一歩前進できたということです。

彼らはどう変わったか

Formula SAEのオーストラリア大会は、チームの再起動的な位置付けでした。

そんな状況で、マシンを走らせるダイナミックイベントのAccelerationで1位を取れたのは大変嬉しいことでしたが、要点はそこではありませんでした。
メンバーがどう変わったか?です。

具体的なことを文章で明確に表すのは難しいのですが、大きく変わりました。

英語が堪能とは決して言えない学生達が、想像を超える積極性を見せたわけです。
これは良い意味で想定外でした。

あらゆるものが準備不足と言っても良い状況で、特にマシンを走らせないスタティックイベントにおいては結果は望むべくもなかったのですが、その中でベストを尽くした感がありました。

もちろん、全員が、完璧、という状態ではありませんでしたが、再起動に最も重要なファクターと思っている積極性の獲得はできました。
これは間違いなく次回以降に繋がります。

教育の危機管理

世界を見渡せば、戦争やらテロやら、相変わらずキナ臭い状況で、危機に対する管理意識は大事だよなぁ、と思う毎日なわけですが、教育にとっての危機は何でしょう?なんてことも考えたりするわけです。

少子化で学校が潰れちゃうこと?
まぁ、それはあるかもしれませんね。

ここで考えるべきは、一体何のために教育をしているのか?
それを明確化することこそが重要だと思うのだけど、意外とそんなことを気にしていない人が多いのではないだろうか?なんて思うのです。
そうでもない?

一体何のため?
それは人それぞれでしょう
と言いたいところだけど、それは具体的な目的を挙げればと言う話であって、抽象的な話をするのであれば…

将来の仕事のため

もっと抽象度を上げるなら

価値を生み出せるようになるため

ではなかろうか?と思うのです。

どんな価値をどのように生み出すか
それは多様であるべき

画一的だと、生み出せるものは確定している
新規性があるものは生み出せない
そんなこともあるのだけど…

将来、こういったことが必要だろう
という予想が当たれば良いのだけど、この先の不確定な未来に対しては想像力とか柔軟性とかが重要になるわけで

一本調子な画一的なやり方では対応できない

ともかく、教育の危機とは…

学生達が価値を生み出せなくなること
それに尽きると思うのです。

では、学生の生み出す価値とは何か?
それは回を改めて取り上げてみましょう。