何を変えるのか

主体性は、価値創出の出発点です。
では、主体性が無いとどうなるでしょう。

当然、外部からの指示や情報によって動くことになるわけで、最終的には消費されて終わることになります。
学校にいる学生も同様で、主体性が無ければ、教育・学校という名のビジネスの単なる消費者になります。

学費を払う - 授業で先生から情報がアウトプットされる - それをインプットする

多くは、そのインプットされた情報を使う経験もなく終える構造を望んでいたりします。
評価としてペーパーテストがあったりしますが、その結果は、そのまま社会で通用するわけではありません。

主体的な行動による経験は、価値として蓄積されます。
いわゆる「引き出し」も、その一つです。
単なる「知識」と「引き出し」の違いは、経験に裏付けされたものか否かという違いもありますが、自らがそれを使うことを前提にしているか否かという側面が大きいでしょう。
主体的な行動において知識や経験を利用するか否か、ということです。

主体性は「人格論」でも「精神論」でもなく、価値を生むための構造的な必要条件です。

現在のやり方が時流に合っていないのであれば変える必要はあるでしょう。
しかし、それは「全部」ではありません。

まず明確にしておくべきことは、プロイセン型構造を全否定する必要はないという点です。
基礎知識の習得や安全教育などは、一斉・規律・評価型の教育との親和性が高く、今も有効だし、今後も必要でしょう。

変えるべきものは何か?

まず
教育は「教える」ものである / 「教わる」ものである
「言って」「やらせる」ものである / 言われたことをやるのだ
それしかないのだ / それだけでいいのだ
そこから先は、社会で何とかするのだ / してもらうのだ

という固定概念があるのだとしたら、それを何とかすることでしょう。
その前提に従うほど主体性は必要無くなるからです。

さて、一体どうしたものやら。

学校で主体性を育むために

果たして学校は、「プロイセン型構造」から逃れられるのか?というところですが…

学校は、特に大学は最終的に

  • 単位数
  • 成績
  • 卒業要件
  • 学位授与

という国家的・社会的に説明責任を負う制度の中にあります。
なので、変えるのは難しい。
「勝手に変えちゃおう!」というわけにはいかないのです。

特に工学系の大学では、学生数が多く、教員数は限られています。
そして設備や安全管理が必要。
これらの条件は、プロセイン型の合理性が大きな説得力を持つ環境です。

しかし!
全く望みがないかというと、そうでもないのです。

実は、工学の世界では、正解が一つでない課題を合法的に出せたりします。
これは非常に大きい。

  • 設計
  • 製作
  • 最適化
  • トレードオフ

これらは本来、正解が一つでない世界です。
教員が答えを持たない、あるいは持っていても「唯一の正解はない」ということです。

ただ、現状の運用ではそのようにはなっていません。
皆、正解を目指してやっています。
それは恐らく、各授業が独立しており、ゴールの設定から、その手段の立案、実行までが一本化されておらず、「効率の良い」運用となっているからでしょう。

この現状をすぐに変えるというのは難しい話です。
なので、Formula SAEへのチャレンジは大きな意味を持ちます。

チャレンジしていれば

  • 壊れた
  • うまく動かない
  • 仕様を満たさない

などの失敗やトラブルが起きるものです。
しかし、それらに対して

  • 原因分析
  • 改善提案
  • 再設計

につなげれば、失敗やトラブルを価値に変換する経験ができます。
好きなことをる中で、これらの経験をするのであれば、主体性の獲得は容易でしょう。

また、チームでの活動をすることによって

  • 分業
  • 調整
  • 意思決定
  • 衝突と解決
  • 責任の所在

といった、主体性がなければ成立しない重要な経験を獲得できます。

もちろん「言われたことをやるだけ」を希望する学生は、構造的に限界に突き当たることになりますので、誰でもOKと言うわけにはいきません。
なので「入り口」から主体性が必要になります。

そんなことを考えていると、現状では有志による課外活動というのがベストな選択なのだろうな、と思うのです。

学校で主体性は育めるのか

もうお分かりかと思いますが、学校は主体性が育ちにくい構造・環境になっています。
ほとんどの動機は外的で

  • 価値は「点数」
  • 成果は「評価」
  • 成長は「偏差値」

に置き換えられます。

これは短期的には効率的ですが
価値創出の訓練にはなっていません
そもそも動機が内的ではないからです。

その結果

  • 優秀だが価値を生めない
  • 指示がないと動けない
  • 自分で意味を作れない

という状態が生まれやすくなります。

とはいうものの、いきなり「教育改革だ!」というのも難しい。
最大の理由はここです。

  • (現状の)一部だけ変えると混乱する
  • 全体を変える権限はない(基本構造は文科省などが決めている)
  • 評価制度だけは変えられない

結果として

本質は変えず
言葉だけが変わる

という現象が起きます。

  • アクティブラーニング
  • PBL
  • 主体的・対話的で深い学び

という言葉を聞いたことがあるでしょう。
そういうワードが増えても

  • 時間割
  • 単位
  • 成績
  • 卒業要件

という基本要素や構造が同じなら、本質は変わりません。

ただ、全く無意味かというと、そんなことは無いとも思います。
急に変えるのが難しいのなら、できるところからやるというのも大事だからです。

しかし、この現状は

  • 管理しやすい
  • 説明しやすい
  • 完成度が高いシステム
  • 誰もが慣れている

という点で「合理的」で、かつ強力な慣性力を持っています。
手強いです。