二極化の件 リソースについて

これから二極化が起きる
と何度か言っていますが
これは特に明確な根拠があるわけでは無く
いわゆる肌感覚ってヤツです。

つまり私個人の「勘」なので
別に脅すつもりもありませんし
説得するつもりもありません。

日々思ったことを書いていくのがこのブログです。

さて、この二極化の本質です。
もちろん私個人の意見ですが。

一般に「持つ者/持たざる者」というと、お金の話になりがちです。
まあ、最終的にはそういうことになるのかもしれませんが
その上流の「リソース」が問題です。
それはお金だけではない。

  • 時間
  • 知識
  • 経験
  • 信用
  • 人脈
  • 体力
  • 集中力
  • 判断力
  • 技術力

などなど
それらすべてがリソースで
本来は自由に使うことができます。

でも
作れるリソースと
作れないリソースがある

そして
使えるリソースがあれば
制限されたリソースもある

このリソースについての見方が
単一化されていると残念なことになります。

特に学校では
リソースが限定されていて
評価尺度が固定化されていて
それ以外を許さない傾向があるので要注意。

例えば
社会では皆が力を合わせて
より大きなゴール到達を目指しますが

学校でテスト中にそれをやると怒られます。

というように
利用できるリソースは限定されていて
基本的に「与えられる(指示された)もの」です。

そういった環境に慣らされると
ナントカガチャ
とか言って
当たりだの
外れだの
親が
とか
環境が
とか
他責の思考になりやすいです。
そもそも、そういった考え方が
運を逃す原因なのですけどね。

というわけで
二極化の本質の根源には

自分が持っているリソースに
気付き
利用して
もしくは
新しいリソースを作って
前に進む者

リソースは他から与えられるもの
という概念を持っていて
待ち
受け止めて
対処する者

そんなのがあるのではないかな
と思っています。

それは
従来の尺度で言う優劣ではなく
結局は価値観の問題なのではないかな。

では、もっとも貴重なリソースは何でしょう?
それは

時間です。

これだけは作ったり買ったりできませんから。
お師匠様の佐野先生がよく言ってました。
全くもってその通りです。

守りと攻めのお話し

何をすべきかを決められなくて
どうしたらいいか分からないので
立ち止まって守りに入る
受け身になる

真面目だろうが不真面目だろうが
ゴール設定をしないと
そういう状態にハマります。

環境の影響を受けて流されるままになり
降ってくるものを受け止めて処理しているうちに
時間は刻々と過ぎ
自分が選んでいない
しかも望んでもいない出来事に対処するしか無くなり
消去法によって行動を決定したり
いわゆる「究極の選択」にたどり着くことも多い。

いわゆる守りの姿勢です。

成長過程であれば

「だって経験の無いことに直面してるんだから
しょうがないじゃん」

というのも理解できなくも無いですが
この守りの姿勢
一見、守っているようで、実は守れていない。
なぜなら、自分で選んでいない現実に
対処し続けるだけになるからです。

その状態では、不安が消えません。
なぜなら、その状態での出来事は
自分で選んだものではないから。
次に何が来るかは分からない。
だから不安や不満が溜まる。
他人のせいにしたくなる。
でも自分で動いていないので変えられない。
結果として、無力感とかストレスが蓄積する。

一方、自分で選んでチャレンジすると
当然失敗します。

なのですが
その失敗は自分の選択の結果なので、学びに変えやすい。

受け身の姿勢の場合
「降ってくるもの」は
他人が考えたものなので
何のためなのかは分かりません。

何のためなのかが分からなければ
どうすべきかも決められません。

正解を捜す旅で遭難するのがオチです。

というわけで
受け身の姿勢だと
「ノートライ・ノーエラー」になりがちで
一見安全に見えても成長は止まります。

自らの意思でのチャレンジであれば
何のために何をしたのか
その結果どうなったのかという
思考と行動と結果のプロセスが全て掴めている。
なので「次はどうするか」を自分で決められる。

攻めの姿勢はリスクがありそうです。
が!
そのリスクを自分でコントロールできます。

守りの姿勢はリスクが低いように見えます。
が!
自分でコントロールできませんし
できるようにもなりません。

本当の失敗は、失敗を恐れてやらないこと。
チャレンジを続ける限りは成長は止まりません。

ダメでもいいからやってみる
ってのは、とてもとても大事なのです。

壺に入るな

領域を狭めて何かに特化するのは
戦略として必要なことです。

人類の発展の歴史も
人々が、様々なタスクに特化して
専門化したからこそ成し遂げられたこと。

それぞれが何かに特化して強みを作る
皆がそうしている状態を俯瞰して全体を見ると
総合的にレベルが上がっている
ということです。

大学で「文系」とか「理系」に分かれて学ぶのも
要はそういうことです。

美味しいパンが食べられるのは
パン屋さんが頑張ってくれているからです。

でも
「別に言われたからやってるだけで
最小限、最低限でいいじゃねぇか」
と思い始めるとどうなるでしょうね。

領域を狭めるのは
専門化して、何かに特化して
強みを作るのでは無く

単にタイパの良い仕事にして
負荷を低減して楽したい
単に効率を向上するのが目的
となっているとしたら…

余計なことをしたくないから
専門化しているとしたら…

それは全くハッピーではありません。

確かに専門家は増えるかもしれませんが
余計なことをしたくないという動機での専門化は
狭い領域に閉じこもり
自分の専門外には手を出さなくなるでしょう。

タイパだのコスパだのを向上させる
つまり単に効率を向上させるため
広い領域を見られる人が減るはずです。

※この場合の「専門家」は、別にエンジニアとか学者さんとかの特定の職業を指すのでは無く、各人が「特定の自分の仕事を持っている状態」を言っています。

システムは、個別の要素でできています。
国家というシステムは国民で
マシンというシステムは部品で構成されている。

まず個別の要素を作って
それらを集合させて
全体ができあがる…
ではありません。

完成した部品を使って
クルマなどを組み上げるプロセスを見ると
その通りに見えるのだけど
構想段階では全く逆のことをやっています。

まずは全体の構想です。
単品は、それによって決まる。
たぶん、多くの人がこれを誤解しています。

「個」の状態でゴールが無く
狭い領域しか考えない

これはいわゆる「タコツボ」状態です。

皮肉なことに
タコツボ化していると
タコツボ状態になっていることには気付けません。

壺の中にいるタコは周りが見えないのだから
現状と比べようが無いのだから。

それに、その状態が理想だったりするから。

であれば
気付けないし変われない。
気付きたくないし、変わりたくないのかも。

さて、長くなりましたが
ここまでが問題提起みたいなものです。

皆が限られた領域に閉じこもるなら
「間を繋ぐ者」がいなくなります。
「全体を見られる者」がいなくなる。

ということは
そういうニーズがあるということです。
色々分かる・できる人がいないと
システムは構成できませんから。

間を繋ぐためには
全体を見るためには
色々経験しておく必要があります。

深けりゃ良いってものではありません。
というより
狭いだけではよろしくない。

さらに言うなら
専門領域をやるにしても
全体が分かっていれば
何をどうすべきかを考えられます。

もちろん専門家は必要なのですが
それだけじゃダメってことです。