正解・不正解の先に

あらかじめ用意された「問題」
それに対しては「答え」がある。
それを「当てる」のが学び
とすると…

学生は教員に対して「合ってますか?」とくる。

こういうことをやっている状態でのゴールは何か?

間違えないこと
です。

評価は

  • 合っているか
  • 間違えているか

の二つ。

そこから脱する必要があります。
では、どうすべきか?

  • 「問題」は、本人が作るべきもの
  • 正解・不正解では無い
  • それを「形づくり」、「良くしていく」のが学び

そういうスタイルが必要ではないかな。

でも、これ、難しいですよ。

言ったことをやらせるのが教育だ
という価値観を持っていると、凄く難しい。

言ったことをやらせるのではなく、任せるのであれば
教員が“黙る”必要があります。

恐らく、ここが一番難しい。

学生が悩んでいると、教えたくなります。
既存のものに当てはめたくなります。
既存の価値観で評価したくなります。

でも、そこで介入したらお終い。

先が見えている
失敗すると分かっている
でも、言わない
結果と向き合わせる。

そうしないと主体性は発動しません。
自分で考えることができなくなります。

二宮尊徳も言っている

200年くらい前に二宮尊徳が言っています。

行ひて教へ学んで行ふ
今の教ふる者、言うて教へ書きて教ふ、故に効なし

江戸時代に尊徳がそのように嘆くような状態になっていたのが意外ではあります。
が、この頃はすでに
町人層は識字率が高く、寺子屋が普及し、「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる教科書が大量に流通して、貸本屋も増加している
という状態だったようです。

尊徳は、農村の再興を手がけたことで有名ですが、その手法は
田畑を実際に耕し、村人と共に働き、その中で指導する
というものです。

そんな状態で、彼が問題にしたのは

  • 知識だけで完結する学び
  • 行動に接続しない教え
  • 体験を伴わない道徳講話

です。
もちろんそれは、経験に基づいて実感したということでしょう。

時代は繰り返すってことですかね。

主体性を養うなら

現状の、一人の教員が多数の学生に対して教育するスタイルで、主体性を養うのは無理です。
それをやると、一方通行の「受け取るだけ」の暗記型の知識習得にならざるを得ない。
実際、現状がそうなっています。

というか、そもそもプロイセン型の教育は、主体性を育むための制度では無いのです。
むしろ、主体性を抑制して不要化することで、効率よく教育することが目的。

プロイセン型教育は

  • 国家に忠実で
  • 規律を理解し
  • 命令を正確に実行し
  • 役割を逸脱しない

そんな大量の人材を、安定して供給するために考案されたものです。
この目的においては

  • 個々人が目的を問い直したり、現状を疑ったりする
  • 判断基準を自分で持つ
  • 指示と異なる選択をする

といった主体性は、むしろノイズになります。
授業でこれをやったら、間違いなく怒られるでしょう。
そもそもこれらは「自ら考える」ということなのですけどね。
対して、授業でやるのは「与えられた”型”で考える」ということです。

「問題を解く」というのは、一見「考えている」ように見えますが、記憶した既存の解法を使って「問題を解く」という作業を行っているわけで、主体性を発揮して自ら考えているわけではありません。
そもそも、カンニングペーパーを利用すれば良い点数を取れるような試験で、実践的な能力は評価できません。
実務ではカンニングは自由で、最終的にどれだけ価値を生み出せるかが問われるのみですから。

大事なのは、何をもって価値とするのかとか、どうやって価値を生み出すかを自ら考え、実践することでしょう。

ただ、現状の学校においては、色々と主体性を育むための工夫をしようとはしています。
プロイセン型から脱することなく、日本オリジナルの形が作られようとしているのかもしれませんが、そもそもシステムの根底の部分が矛盾しているので難しいでしょう。
とはいえ、最終的には我々オリジナルの”型”ができるのが理想だとは思います。

私ごときでもこの程度は思い付くのだから、きっと頭の良い偉い人達は、この問題を理解していると思います。
けど、現状のシステムをひっくり返すのは簡単ではないのでしょう。

少子化で少人数になるなら、プロイセン的なスタイルはやめてしまって、いっそ真逆の少人数制でやれば主体性は発揮しやすくなります。
その場合は人件費が問題になるでしょうけど、ボランティアなら成立しますね。
そりゃ、夢工房ですが。