資質の話

資質とはなんぞや

辞書を引くと、生まれつきの性質とか才能とか、「生まれもっての…」というニュアンスです。
でもそうなると、そこに自分の意思が介入する余地は無さそうです。

じゃぁ、資質は作れない?
どうでしょうね。

資質はどんな働きをするのか?

性質やら才能やらというのなら、無意識のレベルを構成しているのは間違いないわけで
ちょっと分かりにくいけど、無意識のレベルの「考え方」みたいなものでしょう。

無意識レベルに落とし込まれた価値観によって、直観的な判断が行動に繋がる状態と言ったら良いのかもしれない。

これが、遭遇したものごとに対して、反射的に対応できる、といったような感じで、仕事に対して自然に発揮されれば、「資質がある」と言われる状態になるでしょう。

なので、そのような状態になるのであれば、本当の意味での「生まれついての」ということでなくても良いのではないかなと思うのです。

そもそもの「資質」は習慣や環境によって形作られるものでしょうから、同じく習慣や環境で修正が効くはずです。
だって、訓練とかトレーニングって呼ばれるものは、そういうものですから。

考えなくてもできるようになる
そのためにやるのが訓練やトレーニングです。

考え方と行動を変えて、それを習慣化すればOKでしょう。

カギになるのは知能やら知識ではなく、望む行動を駆動するパワーや決断力でしょう。

依存関係の難しさ

他人から必要とされたい
という感情は誰しも持っているでしょう。
それ、感情なのか?とも思いますが、この際細かい分類はどうでもいいのです。

他人から必要とされたい
というのは、他から依存されたいということでもありますよね。
それが人の価値に繋がるわけで…というか、価値そのものだったりするわけで
集団の中で生きていくための方法の一つでもあるでしょう。
なので、本能的なものなのかもしれません。

結局、我々は大なり小なり他に依存しながら生きているわけで
子は親に、学生は教員に
国民と国家など、個と組織という関係もそうでしょう。
小さいものが大きいものに一方的に依存しているとは限りません。

個が存在しなければ、組織は成立しない訳で、双方向ですよね。
学費を払う学生がいてくれないと、教員の存在意義とか価値なんて無いでしょうし。

依存されていることが単に負荷になっているかというと、確かにそういう側面もあるけれど、全く依存されないと存在意義が感じられなくて寂しいことになります。

依存される方は
「しょうがねぇなぁ」
とか言いながら、期待に応えることにより、自分の存在意義とか価値を感じていたりもするわけです。
いわゆる「頼りにされている」という状態ですね。

なので、単純に依存が良いとか悪いとか、そういう話ではなかったりします。
依存の反対の「自立」は、カッコよくて響きが良いので、「依存ってダメだ」みたいな印象を持たれがちですが。

難しいのは、何をどの程度依存するかによって色々と結果が違ってくるだろうということです。

例えば
親が子のために何でもやってやる
とか
先生が学生のために何でも教えてやる
なんてことをすると、必要なもの、欲しいものを手に入れるための努力や工夫は最低限になって、大げさな言い方かもしれませんが、生きる力というか、生きるための知恵が手に入りません。

「くれ」と言ったらもらえるとか、言わずとも手に入るなら、努力とか工夫なんて必要無いからです。
依存によって求めるものが容易に手に入ることに対して喜びを感じてしまったり、それがデフォルトになっているなら、自分の力で苦労して何かを手に入れる充実感を感じる経験をするのは難しくなるでしょう。

往々にして、単なる依存によって手に入るものって、大したものでは無かったりするのですけどね。

でも、依存によって環境に存在するリソースをうまく使うというのも重要です。
人だったり、ものだったり、情報だったりしますが。
もし、全てを自力で手に入れるなら、我々は原始人からリスタートしなければなりませんから。

なので、何をどれだけ依存するかというのは結構重要なことだと思うのです。

もちろん、その対価として自分は何を提供するのか、というのも同じくらい重要です。

想像力を得るには

これを知っていれば
とか
この資格があれば
とか
それで何とかなる仕事も世の中にはあるのかもしれませんが
開発をはじめとする、創造的な仕事はそういうものではありません。
もちろん、知識とかスキルとか経験は大事なのですけど
創造的な仕事には、想像力が必要です。

昨日の記事で
想像力は大事だよね
という話をしたつもりなのですが、ではその想像力を養うためにはどうしたら良いのでしょう?

そもそも想像力が不十分だとしたら、それはなぜ?

色々と理由はあるでしょうけど、端的に言ってしまうと、今まで想像力を必要としてこなかったからだと思います。想像力があまり必要無い環境で生きてきたとか。
必要の無い能力は、伸ばす理由がありませんから。

例えば、親とか先生がやるべきことを指示して、子供が忠実にそれを実行する
みたいな関係だと、子供は想像力は必要無いですよね。
言われたことをやれば良いだけだから。

言われたことを忠実に実行するなら、その時はとても良い評価を得ると思います。
授業の成績が良かったり、言うことを聞く良い子という評価を得たり。

対して、偉人伝とかにありがちな、不遇な幼少期を過ごしている間、想像の世界に逃げ込むようなストーリーがありますが、何かが不足しているような状態だと、その不足分を想像力で補うようなことをしたりするわけでです。
まぁ、不遇な幼少期なんて例えは極端かもしれませんが。

まぁ、理想と現実のギャップを埋めたいといったような欲求が想像力を育むのではないかな、なんて思うわけです。

なので、理想を想像するのがスタート地点…
なのですが、そもそも想像力が無いとスタートできないってことになっちゃいますね。

どうしたらいいのでしょう?

これといった答えはないのですが、今まで学生達を見てきて気付いたことがあります。

何かしらの自己の欲求を達成したいという欲望というのは誰しも持っていると思います。
これが
言われたことをやる、というか、言われたことをやりたいという欲求と言ったら良いのでしょうか、それに対して優先するタイプは総じて想像力が豊かです。

「やりたい!」「欲しい!」「それが必要だ!」
という気持ちが強ければ、想像せざるを得ませんものね。
まぁ、当たり前と言えば当たり前です。

これはもう、本人の価値観の問題です。
結局、人はなりたいようになっている、ということでしょうか。