「失敗」について

何かしらの基準に対して満たなかったり、望まない結果が出ることを「失敗」
…と呼びますよね。

でもね、要は考え方や捉え方次第だと思うのです。

だって、「何かしらの基準」にしても「望まない…」にしても、それは自分で決められること。

やったことに対する結果の評価は自分ですることができるわけで、それを何と呼ぶかという話しであって、それが前述のように「失敗」を呼ばれるだけです。

恐らく、意識しないでいると、自分以外の誰かが決めた評価基準に無意識で従っていることになっていたりしませんか?

ただ、ここで言いたいのは、「どんな結果だっていいじゃん!」という投げやりなことではなく、他人が決めた基準で評価して、その結果が「ダメである」と、終わりにしてしまったらもったいないよね、ということなのです。

どういうことかというと、いわゆる「失敗」がダメな経験にカウントされてしまったら、その経験はいわゆる「引き出し」と呼ばれるリソースとして活用しにくくなってしまうということです。

そもそも、何かをやった上での「失敗」は、大変貴重な「引き出し」なのです。
やった者にしか手に入れることはできませんから。
対して、単なる知識の「引き出し」は、多くが持っているので、有利なリソースにはなりにくい。

というわけで、この「失敗」という呼びかた、なんとかならねぇかな、と思っているのです。