でっかいところから行こう

仕事としてやっている人には常識ですが
「もの」はでっかいところから行きます。

分かりにくいですね。
こういうことです。

夢工房の学生達が
レーシングカーを作ってますが
どんなクルマにしたいの?
という大枠から各部が決まっていくわけで

決して細部の設計からスタートして
最終的に全体ができあがるわけじゃないよ
ということです。

「細かいところからやったら
こんなんなっちゃった」

そんなやり方したら
最後までクルマの形なんて分からないでしょう?

それじゃ
頑張っても報われないですよ。

なので
「最終的にこうしたい」
というゴールを最初に設定して
そのための設計をするのです。

もっと大枠から考えるなら
「こうやって勝ちたい」
という戦略を考えて
次に、そのためのクルマを考える。
そのためのチームを考える。

こういう枠で考えるなら
クルマはそのためのツールにすぎないわけです。
そのツールをどうするかは
戦略によって決まるということです。

そんなの当たり前なのですが
学生にとっては新鮮
というか、信じがたいのかもしれません。

だって
ずーっと
細かいところから始める
というやり方でやってきたのですから
最初は仕方ないですけどね。

なので、大学で勉強しているのに
「将来どうしたいの?」
と聞かれても返答に困る学生がいるのは
当然といえば当然ですね。

細かい要素的な勉強を
頑張って積み上げれば
そのうち何とかなるだろう
ってやってきたのだろうから。
周囲もそう言っていただろうし。

さらに言うなら
理工系の学生って
基本的にテクノロジーとか要素好きなんですよ。
なので、小さい単位の何かに惹かれるとか
拘りを持っちゃう傾向が強いのだと思います。
そういう気持ちは良く分かる(笑)

でも
夢工房に来たら逆になっちゃうんですよ。
でっかいところから行かないと
何のために何をやっているのか
どうしたら良いのかが
分からなくなっちゃって
迷走する。

とはいえ
急に今までの考え方をひっくり返すのは難しいことです。
そう、考え方を変えるって難しいんですよ。
一番大事なことだと思うんですけどね。

The true story of 二宮尊徳

むかしむかし
二宮尊徳(二宮金次郎)が
お殿様の命令で
下野の国(今の栃木県)にある
桜町というところの復興に向かったそうです。

その時、お殿様は
補助金を出そうとしたのですが
尊徳は断ったそうです。

「仁術を施せば
貧しい村を救えるはずだ
金銭をあげても
苦しんでいる人を救うには何の役にも立たない」
と。

「仁術」(じんじゅつ)
あまり聞き覚えの無い言葉ですね。

仁徳を他に施す方法
ですって。

「仁徳」(じんとく にんとく)
これもあまり聞かないでしょう。

民の辛苦を除き喜びや楽しみを与えようとする徳
だそうです。
これ、たぶん
辛苦から脱してから
喜びや楽しみを得るんじゃなくて
順番は逆だと思いますけど。

結局のところ
日々の生活に
喜びや楽しみを見いだして
苦しみから脱することで救われる
ということですね。

喜びや楽しみ たって
一時的な快楽じゃダメなんでしょうけどね。

小学校に
二宮尊徳の像があったりしませんでしたか?
薪を背負って本読んでるやつ。

あれを
仕事しながら勉強していて偉いねー
ではなくて
どういうことをした人なのかを
もっと伝えないとイカンと思うんです。

おっと、そうじゃなかった。
今回話したかったのは
尊徳がお殿様に言った
「金を与えてもダメなんですよ」
ってことと
喜びや楽しみによって
苦しさから脱する
というところなんです。

非常に回りくどい話になっちゃって申し訳ないのですが
学校で
「これ知らないと良い給料もらえないぞ」
「会社に入れないぞ」
なんてことを言って
色々と(価値の源泉ということで)知識を覚えさせたって
幸せにはなれんだろうよ
ということなんですよ。

200年も前に
小学校に像が建っちゃうような偉い人が
大事なことを言ってるじゃんか
って。

そりゃぁ知識は大事だと思います。
でもそれを
むやみに与えれば良い
というものではないでしょう
と言いたいのです。

それを欲しがって
使うことに喜びを感じられれば
そりゃぁハッピーでしょうけど
欲しがってもいない人に
無理矢理押しつけても
良いこと起きないのではないかな
と思うのです。

もちろん持っているだけでも何も起きません。

「何も無いよりマシだろう」
本当ですか?それ。

尊徳は
一度、桜町で農民や役人に指導した際に
彼らが従ってくれないので
引きこもっちゃうのですよね。

「ああしろ!こうしろ!」
言ってもダメだった。

で、民を従わせるのではなく
地域の復興こそが大事なのだ
と考え直したそうです。

あ、こういう話
子供達にしちゃダメだな。
というか、話せないな。
従ってくれなくなるもんね。

そうか!
だから先生は
薪背負って本読んでた
なんて言ってたのか。

あ、イカン!
脱線したままで終わってしまう。

そうそう!
なので、学生達が自分達の好きなことに一所懸命取り組む
これは幸福の根源なのではないかな
なんて思ったりしているのです。
仕事だってそうですもんね。

狭くて深いか広くて浅いか

大学で学ぶと専門性が高められます。
そのために学んでいます。

工科系の大学ならもちろん
工学系の勉強をするわけですが
どんどん専門性を高めていくと
それはすなわち領域が狭くなる
ということです。

その代わり
より深掘りしていくことになります。

ただ、物事の本質は
分野が違ってもそれほど変わらない
という言い方もありますので
あまり問題にはならなかったりすることもあるでしょうね。
その辺は本人の考え方にも大きく左右されると思います。

さて
では、夢工房の学生はどうかというと

クルマ作ったり惑星探査機作ったりしていて
チームで動いているのですが
そんなに大人数でやっているわけではないので
各人が部品1個作れば良いなんてことはなくて
色々やることになります。

最低でも、1つのシステムの面倒を見る必要があります。
例えばサスペンションとか駆動系とか
エンジンなんかもそうですね。

もちろん、それらのシステムが取り付く相手もあるわけで
結構広範囲に色々やる必要があります。

もちろん、自分で企画して設計して
自分で作って組み立てて
場合によっては自分で運転する。

その他にも
広報や会計なんかもやります。

なので、学生一人の担当領域が広くて
ことによっては、クルマ1台のほとんど全てを把握する
ということになります。

もちろん一つのゴールに向かって開発をするので
チームワークなどは基本中の基本です。
(ただし仲良しクラブでは絶対にダメですが)

こういうのって
普通の授業では経験できません。

そんなことをやる時間も場所も無いですし
なにより非常に面倒だからです。
やる方も、面倒を見る方もです。

ただ、このやり方は大変重要です。

なぜかというと
テクノロジーの進歩と共に
専門領域はどんどん深化していくので
そのための教育も領域を狭めて深化していくからです。

それはもちろん必要かつ重要なことなのですが
世の中みんながディープな専門化になっちゃったら
一体誰がまとめるんですか?
ということになります。

クルマに限らず製品設計など多くは
専門性を要求される部品の集合体です。

勘違いしてはいけないのは
良い部品を集めて組み立てれば
良い製品になるわけではない
ということです。
これは話しが長くなるので
気が向いたら改めてお話ししましょう。

さて、多くの製品は色んな部品の集合体なので
それをまとめる人は
一通り全部知っている必要があります。
ただ、それぞれの専門領域において
それぞれの担当レベルに知っている必要があるかというと
決してそんなことはありません。
そりゃぁ、高いレベルの知識があれば
それに越したことはないでしょうけど
各担当者に要求レベルを求めることができる程度の
知識と経験は要るでしょうね。
(「知識」だけじゃなく「経験」がより大事です)

もちろん戦略的に考えて
何のためにどうする?
というのをマシン全体で
ことによっては、チームや参加するイベント全体
というレベルで判断することも必要になります。

一般的な大学での教育では
専門性を高めていくと
領域が狭くなっていくわけですが
その方向に行くと
システムとしてまとめる
という経験はあまりできませんし
戦略的に考えてものごとを進める
という経験もしかりです。
専門家なので当たり前です。

もちろんそういう人達は必要なのですが
それをまとめる人達も必要です。
でも、そのための教育は授業の中には無いのです。

なので、クルマや惑星探査機をチームで作っている学生達は
とても重要な存在なのです。