考えるということ

大学の勤務も気付けば24年くらいになるのかな。
もうすぐ4分の1世紀ですね。
ど根性ガエルのヒロシの先生は、教師生活25年。
どうでもいいか、そんなこと。

で、だ。
学校って勉強するところだから、皆さん頭使ってるわけですよ。

でね、その頭の使い方なんですが、いわゆる勉強というか、定型的な知識の習得というか、まぁ言われたことをやってるわけですが、そういうのって実は作業的な頭の使い方なのですよね。
分かりにくいかな。

計画してマネージメントするような頭の使い方とはかなり違っていて、やるべき事を絞って、見る領域を絞って、やることを絞って、そこに集中する。
ヘタすると時間軸も重視しません。

計画を遂行する時って、それに必要なプロセスとか要素を検討して、時間軸上に組み込んでいくわけですが、そういったときは未来を創造して、全体を俯瞰して、最適化するようなことが必要になります。もちろん主体的に。

が、一般的に学校ではそういった経験はほとんどできないと言っていいでしょう。

これははっきり言ってしまって良いと思うのだけど、学校のお勉強の先に計画を遂行するような能力があると思ったら大間違いです。
考え方ややり方が違うから。
求められる能力が違うと言って良いでしょう。

いくら勉強ができたからといっても、プロジェクトの遂行のようなことはできるようにならんのです。

今までいくつかの授業を通して、ゴールを設定して計画を手段までブレークダウンして実行するようなことを試してみましたが、そういう時に求められる能力と、勉強の出来不出来とは全く関係ないってことが分かりました。

なので、学業成績のみを見て重要な仕事を任せるとかいうやり方は、極めて危険なのだ、ということです。

ただ、いわゆるデキルヤツが勉強もできちゃうようなことはあるわけで、その辺は誤解なきよう。

そして、プロジェクトを回せるからといって、作業的なことができるとも限らない…というか、むしろ苦手なことが多いのも事実。

夢工房での人材育成を考える上で重要なことが日々明確になってきています。
いやー、面白くなってきたぞ。

普通って何だ?

多くが「普通」を目指します。
個性的な行動をする人も、無意識にそうしている部分はあるでしょう。
が、そもそも普通って何?という話です。

単なるマジョリティ(多数派)?

多数派に属していれば安心ということでしょう。
「群れ」を作ることにより自らを守る本能ですよね。
責任が分散できて個が目立つことは無いし、集団の力による防御力も発生する。
労力とリスクは最低限になるでしょう。

それがゴールなのであれば理解できなくもない。
そこに属したいとは思わないけど。

それを求めているとしたら、なぜ?

恐らくそれは、自然とそうしているのだと思います。
としたら、本人にも分からないでしょうね。

ただ、全員が「普通」を求める価値観に統一されてしまうとちょっと危険。

もし群れが危険な方向に進んでいるとしたら全滅してしまいます。

そこで「変わった人」が必要になります。
そうすれば全滅を避けられますから。

その人が群れを率いるのか、それとも群れは全滅してもその人だけが生き残るのか
それは分かりませんし、場合に夜のでしょうけど。

という極端なケースを論じていきたいわけではなく、先が見えない変化の時代においてはどうあるべきなのだろうか?というのが大変気になるところ。

変化に対応すると言っても、リアルタイムで対応する方法もあるし、直感で先読みをして、それに対して備えるやり方もある。

これまた正解は無いのでしょうけど、そんな時こそ色んな人が必要なのではないでしょうか。
色んな価値観を持った人が、色んな事をやってみる
そんなのが大事なのだと思います。

しかし、一般的に人が感じる恐怖の対象の一つは「分からないこと」。
その「分からないこと」に対してどのようなアクションを取るのか。

萎縮して視野を狭めて守りに入るのか
逆に視野を広げて多くのトライをするのか

どちらを選ぶも自分次第。

どうせなら面白い方を選びたいものです。
この「面白い」という感覚も人それぞれで、何をもって「面白い」とするのか、これも問題なのですけどね。

でも確かなのは、現状のままで満足いかないのであれば行動を変えるしかない。
それは確かでしょう。

そうしたら、そのうち面白いことになっていくかもしれません。
原因と結果はセットですからね。

比較からの解放

優劣や順位
自分の存在意義を感じたりするためには必要な感覚かもしれません。

学生は、小さい頃から順位の比較によるプレッシャーにさらされています。
それはシステムとして形づくられていて、もはやそれ以外の選択肢は見当たらない感じ。
もはやそれが常識。

で、時として思うのです。
この順位付けのプレッシャーが幸福感を感じられない原因ではないかと。

レースだのコンペティションだの言ってる人間がこんなことを思うのはどうなの?
とも思うのですが、そもそもそういったものと、学校の成績におけるものは違うのです。

レースとかコンペティションは、自分の外の領域に価値が置かれています。
他と競うことを楽しんでいたり、エンターテインメント的な要素があったり、そのために自らのパフォーマンスを高めるわけです。
もちろん学生のコンペティションであれば、それによって得たものは、彼らが社会に出た後に公共に向けて役立てることになります。

対して、授業とか受験とか、そういったフィールドの順位付けは、あらかじめ決められた項目にする限定的な能力にたいするもので、その成果の価値の置き所が内的なもの。
いずれ世に出た後に役立てられるときが来るのかもしれませんが、学生でいるうちはそういったことを実感できません。
良い成績や順位を獲得したところで、その時点では何かの役に立っている実感が得にくい。喜んでくれるのも、せいぜい身内か限られた知人くらいのものでしょう。
なので、モチベーションを上げにくい。

本当は、そういった限定的な領域での能力だけでなく、自ら自由に選んだり、創り出したりする機会があっても良いと思うのです。
だって、社会に出たらそれこそが求められる能力の一つになるのだから。

あと、競うときの形態も重要です。
一人で机に向かうばかりで無く、仲間と力を合わせてお互い伸すくれた能力を出し合ったり助け合ったり。
社会に出たら、一人にやらなければいけないなんてルールはそうそう無いわけで、むしろいかにチームでうまいことやるか、というのが大事だったりするわけですよ。

なので、チームでプロジェクトを成し遂げるような活動を、もっと重視すべきだと思うのです。