これからの学校

今後の少子化を考えても、我が国の行く末を考えても、学校は生き残りはもちろん、より世の役に立つ人材を育成できるよう工夫が必要です。

「世の役に立つ」って、個人はどうでも良いのか?
いやいや、人様の役に立つことができなければ、個人も幸福にはなれません。

というわけで今後は、より尖った個性を際立たせた人材の育成をするための工夫が必要になってくるはずです。

とはいえ、これはなかなか思った通りに行きません。
断言してしまいますよ。

それはなぜか?

尖って個性的な人は、他と異なる人です。
そうなりたい人はどれだけいるでしょうか?

他人と異なることは怖いのではないでしょうか?
なので
できれば他と異なること無く、できるだけ目立たずに、他と異なる結果が欲しい
そんなのが本音ではないでしょうか?
矛盾だらけで凄まじく難しいですね。

ともかく
不安が、心配があるので、他と異なることはしたくない
というのが現状でしょう。
つまり、行動原理がリスク回避ということ。
これを変える必要があるということです。

何度も言ってますが、こういう傾向になったのは、本人達の責任ではありません。
リスクを取るのは愚かで間違ったことだ
という価値観を植え付けた環境によるものです。
でも、現状を自覚してもなお留まろうとするのではれば、そこから先は本人の責任ですけどね。子供じゃないのだし。

さて、未来は不確定なわけなので、一体どうなるのか「保証」は無いし、「証拠」も無い。
でも、望む未来を想定して、必要と思うことをやるしかない。
まあチャレンジなわけですが。

もちろん想定は外れる可能性があるし、思い通りにできない可能性もある。
そのリスクはどうする?

実は「損失」ではないので、長い目で見ればそれはリスクではなく、むしろ財産で、「引出し」とも呼ばれるわけですが。
やらないと分からないことが分かるのだから。

とはいえ、経験が無い者にとってはリスクはリスクなわけで。
それに対して「やれ」と言ってやらせたら、そんなのは自発的なチャレンジではないわけで。

その辺がこれからの学校にとっての難しさになってくるのではないかな。

それをどうするかによって、方向性が分かれるところでしょう。
そんな予測をしています。

で、我々はどうするか?
それが問題なのです。

何のために? 3

何事にも結果を出すには動機が重要です。
が、裏を返せば、動機が不十分では結果は出せないということでもあります。

「失われたウン十年」とか言われる我が国ですが、これを政治とかのせいにするのは簡単ですが、我々自身はどうでしょう?

我々自身にも原因があるとか、そういった責任の所在について言っているわけではありません。
責任を追及したところであまり意味は無いと思うから。

現状の環境の中で、我々自身はどういう状態になっているでしょうか?

もし、特に日常生活に困窮しているわけでも、不便を感じているわけでも無くて、変化に対する欲求が無ければ、現状を変える動機は発生しない。

「このままではイカン!」
「こうしたい!」
という感情が無ければ動機なんて必要無いわけで、現状に甘んじて、ぬるま湯に浸かっていれば、そのままでいたいのは当然かもしれない。

いわゆる「茹でガエル」状態ですね。
もっとも、自身がそういう状態にあるなら、ぬるま湯に浸かって自覚は無かったりするだろうけど。

で、ですね
先日のFormula SAE オーストラリア遠征ですが、何度も言っているように、我がチームにとっては再起を賭けた参戦でした。

準備は不十分でした。
これは、その大会に相応しい準備に対する動機が十分に無かったから。

「このままではイカン!」
「こうしたい!」
という気持ちが十分では無かったから、そうなったのは間違いないでしょう。
つまり、本番の環境に対する想像ができなかったからでもあります。

動機が十分で無ければ、参戦する意味とか価値が無いかというと、実はそうでも無かったりします。

自分達が本当に望むものがそこにある
どうしてもそれを手に入れたい

と本気で思わないと、何をやってもうまくいかないものです。

なので、ダメを承知で参戦しました。
これは賭けでもありました。

オーストラリア大会は、小規模ながら粒が揃ったレベルの高い大会です。
そこに身を置いて

「ダメだこりゃ」
となって萎むのか
「ここに欲しいものがある!」
となるのか
そういう賭けです。

正直なところ、これでダメなら、もうやめちゃうしかないな
と思っていました。

いや、やめるかどうかを決めるのは彼らなので、アドバイザーである私の場合は、「このままなら、もう付き合ってられない」というところでした。

結果、彼らは危機意識と願望を手に入れてくれたのでした。
なので、危機的状況もまんざら悪くない。
というか、むしろ茹でガエル状態には、そういった刺激が必要なのです。

彼らはどう変わったか2

前回の記事では、遠征を契機に彼らに訪れた変化として「積極性」を挙げました。

こういうのって、口頭で伝えて理解はできると思うのです。誰でも。
しかし、その意図するところと言うか、実際のシーンのイメージまでは伝わらない。
つまり、こちらが期待するレベルについては、本人達には経験が無いのは当然で、そんなものは伝わらないのです。
まして、リスク回避のための判断と行動が習慣になっていた場合はなおさらです。

それに加えて、今回挙げたいのは「自分がやるのだ」という感覚です。

これ、一般的には「自主性」と言われることに相当します。
意味は、やるべき事、つまり「枠」のようなものがあらかじめ決められていて、それに対して、言われなくてもできる、ということです。

それに対して、そもそも何のために?何をやるべきか?というところから考えて動けるのを「主体性」と言います。
今回は、この領域に少し踏み込めたかな、と思います。

その程度は当たり前じゃん!

と思いますか?
しかし、教育システムがガッチリ定型化している昨今では、そんなの当たり前…ではありません。

考えてもみて下さい。
学校で学生がやることのほとんどは、あらかじめ正解が決まっていて、それを解くように指示されて動く。
それを自主的にやる者が評価されたりします。
そもそも、指示に対する意味を考える余地なんて無いのです。

なので、指示されたわけでも無いのに、準備が不十分な状態で、ジャッジに設計やコストに関する工夫について、自ら考えて説明する、なんてのは上出来なのです。

当人達にしてみれば、追い詰められた状況でベストを尽くしただけなのかもしれません。
しかし、追い詰められた状況で、果たして誰しもがベストを尽くせるかというと、そんなことは無いわけで。
今回、その点については確実に一歩前進できたということです。