考えてあげると考えられなくなる というお話し その3

結局
考えてあげて
言ってやらせる
というのは、相手の思考を奪うことになりかねないということです。

リスクや失敗を避ける
そもそも、これをゴールとしてしたいのは、指示する側だったりします。

そう。「そもそも」です。

というのも、子供だって失敗はしたくないでしょうけど
それよりも彼らは、「やりたい」のです。

その結果、「やらかす」ことも多いわけで
ケアする側は面倒です。

それに加えて
ケアする側は
言われたこと(だけ)を忠実にやっていれば
場合によっては
言われたことを死ぬほどパワフルにやっていれば良かった
そういうことを経験した世代だったりもします。

なので、自分が正しいと思ったことをやらせる。
しかも失敗しないように。

学校はもちろん、家庭や、教育のシステム自体が

言われたことをやる良い子
言われたことしかしない良い子
言われないとできない良い子

をつくる環境を作っています。

言われたことができる
というのは大事なことなのですけどね。

けど、それだけじゃ行き詰まります。
特に先が見えない、今のような世の中では。

指示されてもいないのにやる
指示されていないことをやる
学校では、そんなことをする必要はありません。
点数がもらえるわけではないし、効率が悪いし、ヘタすれば怒られる。

でも、そういう人も必要です。
特に先が見えない、今のような世の中では
そういうチャレンジャーが未来を切り拓くのですから。

では、「言ってやらせる」こと無しに、放置すれば良いのか?

そういうわけでもありません。

つづく

考えてあげると考えられなくなる というお話し その2

負荷が減るように
失敗しないように
リスクを回避できるようにと
周囲が
考えてあげれば考えてあげるほど
やってあげればあげるほど
守れば守るほど
本人はできなくなる。

そりゃそうです。
他人がやってくれるなら、自分はやる必要が無くなる。

で、その背景には、指示する側が望むようにしたいという思いがある。
そして、その望みに従わなければならないという義務感というか、圧力というか、時としてはルールだったり、そんなものがあるわけで…

そこから外れると、不正解で、ダメで…
となるでしょう。

そういう環境にいると、自分のゴールは自分でセットできなくなって
他人に言われたことをやるしかなくなる。

指示通りにちゃんとやる

ということです。
そうしないと点数もらえませんから。

しかし、社会に出た途端に
「指示待ち人間はダメだ」
のようなことを言われるのですよ。

本人にしたらビックリですよね。
というか、ワケ分からんでしょう。

今までは、指示通りにちゃんとできたら最高点だったのが
急に「言われないとやらんのか!?」とかなっちゃうのですから。

まぁ、「指示通りに…」というのは、時と場合によるのですけどね。
それしかない環境に身を置いたら、基本姿勢がそうなるのは仕方ないでしょう。

はい、今回は
指示待ち人間のつくり方
のお話しでした。

つづく

カンニングで何とかなる教育…でいいの?

知識は大事です。
そして、いつの世も変わらず大事なことでもあります。
それら”だけ”が大事だと思う人がいても良いとも思います。

伝統的な技能・技術を継承する人達とか、各地の先住民など、旧来の文化や暮らしを守り続ける人達に対しては、興味があるどころか大いに敬意を持っています。

まず、これらを最初に言っておきましょう。

しかし、新しいものをつくることを仕事にするなら話はちょっと違ってきます。

どうも最近は、ゼロヒャク思考というか、極端で、学力が高いのが良くて、低いのが悪いとか、多くのものを単一の物差しで測る悪癖が蔓延っている気がします。
いや、昔からか。

これ、結構恐ろしいことですよ。
多様性を失うと、滅んでしまう可能性が高い。

多様性うんぬんとか言うと、移民問題はどうなんだ?みたいな話になりがちですが、その辺も程度問題というか、何のためにどうするのか、といったことを考慮したり試したりすべきで、それが無ければカオスになるでしょう。

おっと、話が冒頭から脱線気味です。
今回のネタはこちら。

ネットのある記事で
とある国では、スマートグラスを使ったカンニングが問題となっている
という記事を見ました。

大学の教員になった20年以上前から思っていることですが…
そもそも、知識がほぼ無料で手に入り、高速なネットワークに繋がり、電子的なストレージに大量に格納できるこのご時世に、「知識をどれくらい覚えているか」という指針で測れる能力“のみ“を、しかもペーパーテスト”だけ“で評価すること自体がナンセンスなのでは?

社会において、そのような能力が必要とされるシーンがどれだけあるのでしょう?
私は思い付きません。

あ、いわゆる「士業」と呼ばれる仕事には必要な能力なのかな。
あとは公務員とか?よく分かりませんが。

学校の先生なんかは、知識の出し入れが仕事なのかもしれません。
提示して、理解させて、覚えさせて、それを吐き出す精度を定量的に評価するだけで良いなら、それは機械にやらせた方が良いと思います。
教育に効率を求めるなら、その方が圧倒的に良いでしょう。

ただ、そういう教育によって育成された人材を労働力として採用するなら、代わりにパソコン買った方が安いし良いよな、となるでしょうけど。

少なくとも、エンジニアをはじめ、クリエイティブな仕事をする人は、そういった知識の出し入れだけでは仕事はできないわけで…
だって、「知識」というのは総じて古いわけで、それを単にアウトプットするだけで、新しいものができることはありませんから。

では、何が「新しいもの」を生み出すのか?

それが簡単に分かったら、教育について悩むことなんてないでしょうし、そもそも時代の流れと共に変化するものなのかもしれません。
が、少なくとも「知る」だけではありません。
「やる」から分かることが重要。

そもそも、「新しいもの」を生み出すためにはチャレンジが必要なのですが、その教育課程でチャレンジが無いってのは矛盾ではないかと思うのです。
そして、不確定な未来、つまり正解が無い世界で、「やる」の結果を定量的に評価するなんて土台無理な話です。
ということを考えると、学校におけるゴールが、定量的な評価(点数)であること自体が問題ではなかろうか?とも思います。

知識の価値が低下しているということであれば、我々はその先に行かなければなりません。
それが何かというのは、チャレンジしながら模索する必要がある。
もちろんそれは、教える方も、教わる方も。
そういう教育が必要です。

でも、それは簡単には実現しません。
我が国の場合、うまくいくエビデンス(証拠)とか保証が無いとシステムの変更はしないでしょう。

「新しい教育」にチャレンジしようとき、当然ながらそれは新しいわけで、うまくいく証拠も保証も無いのです。
なので、保護者も教員も、学生自身も、多くは同意しないでしょう。
そして、現状を維持することになる。
せいぜいできるのは、授業の科目を換えたり増やしたり「手段」の変更くらい。

知識はいつの世も重要。
しかし、もっと重要なのは
何のために、それをどう使うか。
知識は使うためにあるのだから。

本質的な部分の変化が必要な時代がやってくる気がします。