希望はあるかい?

何かを一所懸命やる

その時の動機が
恐怖に基づく場合と
希望に基づく場合
両方があります。

そんな話は以前に投稿したと思います。

恐怖に基づく場合というのは
間に合わないとか
単位取れないとか
そんな感じ。
「ヤバい」が動機のヤツです。

壁にぶつかると焦って困って
なんとかやらずに済まないだろうか
と思います。

希望に基づく場合というのは
夢の実現とか
大好きなことをやるとか
そんな感じで
ハッピーなヤツです。

壁にぶつかっても
何とか乗り越えられないだろうかと
色々工夫できます。

正直なところ
どちらか片方
ということはなくて
両方を経験するものだとは思いますが

基本的にどちらを志向するのか
というのはあって
それが凄く重要だと思います。

恐怖に基づく動機で動いていると
最終的に求めるのは安心です。
そして、何度もやろうとは思えない。

希望に基づく動機だと
喜びに着地します。
そして、またやろうと思う。

個人単位でやるのなら
それぞれが好きにすればいいですね。

でも、チームでやるのなら
やはり希望に基づく動機で動いて欲しい。

それはもう、サポートする側としても
ぜひそうして欲しい。
じゃないと付き合いきれません。

ただ、コンペティションをやるなら
基本的には戦いですので
何でもかんでもピースでハッピー
というわけにはいきません。

戦いには勝たなければいけない。

なので
「どうしても勝つのだ!」
という意思がないと始まりません。

戦いに勝つのに土壇場になって
時間が無いとか何かが足りないとかで
「やべぇ、勝たなきゃ!」
みたいな感情はあり得ませんから。

はいうものの
成長過程では、下から上まで色々経験して
その上で自分でどうするかを決めて実行する
そういうのをグルグル回せると良いのでしょうね。

さて、で
希望はありますか?

もし無いとしたら
どうして無いのでしょう?

まさか誰かがくれるとでも…?

何もしなくても
そのうち自然に湧いてくるとか?

まさか…ねぇ。

Formula SAE マシンに投入するNEWエンジンのテスト準備中
期待が高まりますね

よろしく!! に潜むもの

人を信じて任せる
たぶんそれが人を成長させる上で
最も重要なことの一つなのだろうと思います。
でも、とても難しいことの一つです。

つい信じられなくて
余計な口出しをしてしまったり
手を出してしまったり

もちろん
手出し口出しが必要なときもありますが。

で、ついつい
信じるには前提条件が必要
と言いたくなっちゃったりして。
でもそれは
勇気がなくて腹がくくれないから。

前職での最初のボスは
テストドライバーとして入社した私を
設計に引っ張り込んでくれた恩人です。

この人がいなければ今の自分は無かったでしょう。
まぁ、テストドライバーでやっていたとしても
それなりにハッピーに仕事をしていたとは思いますが。

で、ボスの口癖は
「よろしく!!」
でした。
ビックリマーク2コ付きです。

しょっちゅう言われました
「よろしく!!」

今思うと
未熟な自分に多くのチャンスを放ってくれて
色々任せてくれてたんですね。
もちろん色々やらかしましたが
お陰で成長できたと思っています。

「自分は信じられている」
という感覚が責任感となって
良い仕事に繋がっていったのでしょうね。

色々チャレンジできたのも
「よろしく!!」
からもらった勇気のお陰
とも言えるかもしれません。

いざ自分がそれを言う立場になると
結構勇気が必要です。

「よろしく!!」
は、相手を信じるということで
相手に任せるからには
任せた責任があるからです。

相手を信じずに
むやみに手出し口出しするのは
労力的には手間がかかって効果がありそうです。

確かに知識とかは増えるかもしれませんが
人としての成長は最低限になるのではないかな。

いくら知識が増えても
人としての成長が十分でないと
たぶん将来残念なことになります。
そういうのって、もったいないですよね。

十分成長していない人間が
こんな偉そうなことを言って恐縮ですが。

デッドエンドの前にひっくり返してみたらどうなのでしょう?

もう散々書いていますが
「やらされるやり方」
では限界があります。

その裏には
「できればやりたくない」
が常にあるから。

そういうマインドで
アイデアを出したり
価値の高いものを作ったり
というのは無理があります。

せいぜいうまくいって
アベレージに乗っかる
みたいな最低限な事は
何とかなるかもしれませんが。

これからの日本
労働人口の減少
労働時間の短縮
などで

少人数で
短い時間で
より高い価値を生み出す必要が増大してきます。

というわけで
ますます若い世代への
期待とか負担とかが
高まってくるのは確実なのですが
肝心な育成の現場や普段の環境はどうなっているでしょう?

学校であったり
周囲から入ってくる情報は
それはもう様々なのでしょうけど
いずれにせよ「やらなきゃいけない」と
外部から入力されるでしょう。

そんなケースばかりでは無いのかもしれませんが
ただでさえ「やらされる」感じで
多くのものごとに向き合っている彼らに
さらに「やらなきゃいけない」が上乗せされていくのでしょう。

ますますやる気が無くなりますね。

それに対して
「そんなんじゃ~になっちゃうぞ!」
見たいな脅しをかけて
恐怖心を原動力にする
というのも増えるのかもしれません。

そういうケースもあって良いのかもしれません。
でも、それだけで良いとも思えません。

もっと難しいハイレベルな知識を
彼らの頭に突っ込もう!
そういうのもあって良いのかもしれません。
でも、それだけで良いとも思えません。

外発的な動機には限界がありますし
それを受け止められるのは少数でしょう。

彼らは大きな価値を生み出さなければならない宿命を背負っています。
大変なので、面倒で嫌かもしれませんが
それをやらないと将来大変なことになります。
我が国が。国民全員が。

そんな四面楚歌みたいな状況で
どうしたら流れを変えられるのか?

というか、これ
人の心を軽視しすぎてきたツケじゃないでしょうか。
学生のやる気なんかはもちろんですが
労働にまつわる様々な問題とか
人口に関する問題なんかも
恐らく多くのことの根源は
この、心の軽視だと思っています。

権利の主張とか
そういうのは色々やってる方がいて
そういうのも大事なのでしょうけど
もっと根源の部分に目が向いていないのではないかと思っています。

嫌なことに文句を言うのは盛んになっていますが
楽しそうなことや大好きなことを
一所懸命、とことんやる
という方は、全く軽視されていませんか?

そういうところに若い連中の自発性の萌芽があるのだと思うのですが
もの凄く軽視されている気がします。

なので
「やらせるやり方」
をひっくり返して
やりたいことをとことんやる!
みたいなやり方があっても良いと思うのです。

「そのやり方とか内容で、君達の将来を決められるぞ」
と言ったら、そりゃ真剣にやるでしょう。

とまぁ、その辺までは夢工房の活動を見てきて分かりました。
もちろん、全員に適用できるわけではないですけどね。

デッドエンドに到達する前に
もっと色々多様性に掛けてみてもいいのではないか
と思う今日この頃。