人生山あり谷あり…こんな表現もあるよ

吉田松陰先生曰く

士たるものの尊ぶところは
徳であって才ではなく
行動であって学識でない

かくありたいものです。

何も「才」と「学識」を最小化せよ
なんてことはないけど
重要なのは「徳」や「行動」です。

「徳」を身に付け「行動」が伴っていれば
「才」と「学識」は自ずと身に付く
というか
身に付けざるを得なくなるのではないでしょうか。

でも逆に
「才」と「学識」があれば
「徳」が身に付き「行動」ができるかというと
そんなことはない気がします。

あぁ、徳が欲しい。

実は似たようなことを
孔子もドラッカーも言ってます。
やはり時代が変わっても
本質は変わらないというところなんでしょうね。

そうそう
ドラッカーと言えば
興味深いことを言ってます。

大きな強みを持つ者は
ほとんど常に大きな弱みを持つ。
山あるとことには谷がある。
しかもあらゆる分野で強みを持つ人はいない。

それはそうですよね。
しかしですよ
良くありがちなのが

谷を埋めるために山を削り取っている

どうでしょう
そんなことが起きていませんか?
意外とありがちではないでしょうか。

でもこれは
「どうありたいのか」
によってこれは変わってくるかもしれません。

あらかじめ決められた範囲において
指示されたことを実行する

そんなミッションなら
山を削り取って谷を埋めて
つまり
強みを犠牲にしてでも
弱みをカバーして
いわゆる「そこそこの状態」にしておく
というのは得策なのかもしれません。

しかし、クリエイティブなことをゴールとするなら
これはちょっと危険なやり方でしょうね。

なので、高い山をつくろうとしている学生をサポートしたい。
でも
ついつい彼らの「谷」を見てしまって
埋めさせたくなっちゃったりするのには要注意。

中には埋めるべき谷もありますが
埋める必要がない谷との判別が重要です。

でも、結局、谷を埋めるも放置するも
それは本人次第なのですし
谷なんか見ている暇があったら
山を高くする努力をして欲しいところではあります。

とはいえ
山があまりに高くなる反面
谷が果てしなく大きく深かったりすると
卒業できない可能性があるので気をつけないとね!

今年は試される

ずいぶん長いことコロナ禍続いていて
皆さん参ったと思います。

夢工房も色々大変でした。

何せ「つくってナンボ」なのに
物に触れないのですから。

でも可能な範囲でジタバタやってきました。
色々やり方も変えました。

おかげで多くが高いモチベーションを保って
頑張ることができました。

意外なことに
オンライン環境下でも
彼らは結構な成長を見せてくれました。
特にマインドの面で。
これは正直なところ想定外でした。

今年はその成果が試される年です。

どういうことかというと
100%コロナ禍の環境を通り抜けてきた4年生の就職活動と
コロナ禍の中で入学してきた1年生、2年生を含めた
開発の成果が形になる年だからです。

4年生に関して言えば
果たしてこの期間でどれだけ
精神的に
技術的に
成長することができたのか
それが企業から必要とされるのか。
これは大変興味深いところです。

そしてメンバー達は
このような環境で
どんなマシンに
どんなチームに
することができたのか
それを大会で試されます。
大会が開催されればね!

当チームが狙っているオーストラリア大会は
12月の開催なので
ひょっとするとコロナは終息してるかも!

昨年は全ての大会が中止でした。
(正確には、マシンを走らせるイベントは中止)
なので
ひょっとするとオーストラリア大会が
コロナ明け初のイベントになるかもしれません。

まだまだ思い通りに動けない部分もありますが
条件は皆同じです。
この結果によって
我々のたどってきたやり方と
その方向性がどうだったのかが見えます。

最近では
スポンサーさんにお願いしている部品が仕上がってきたり
さらに新しいメンバーが加入したり
色々と勢いづいてます。

さて
どこまで行けるかお楽しみ!

モチベーションベースの学びへ

他人は変えられない
と良く言われますね。
実際その通りかと思います。

その理屈でいくと
学校で学生をいわゆる「できる学生」に変えることなんてできない
ということになります。
まぁその通りだと思います。

本人が変わりたいと望まない限りは何も起きません。

じゃぁ、学校は何もできないのか?
というとそうでもない。

基本的に大学なんかは
本当に学びたいことがそこにあるから行くわけで
本来そこに大した問題は無いはずなんですが
まぁ、そうはいきませんよね。

というわけで
伝統的なやらざるを得ない仕組みの登場です。

一定レベルに達しないと
進級できない
卒業できない
という仕組みです。

この仕組みは「恐怖」を原動力にしています。
なので多くの学生は恐怖から逃れることをゴールに設定します。

そして
やらせればやらせるほど
やりたくなくなっていく

この仕組みでは
最大限うまくいっても恐怖から逃れることができるだけです。
なので多くの学生が言うでしょう
「将来は安定した暮らし(楽な暮らし)がしたい」
って。
当然です。

そんなこんなやっていくと
本当は学びたいことがそこにあったから行ったはずの大学が
めんどくさい存在になります。
できればやりたくない
という感じ。

あれ?
希望を持っていたはずの学生が変わりましたね。
でも「そっちじゃないのになぁ」という変わり方です。

何度も言ってますが
そんな状態で得た「何か」
それはそんなに役に立つんでしょうか?

そりゃまぁ何もやらないよりは良いのかもしれませんが
もっと良いやり方があるはずです。

大学だって今まで何もやってこなかったわけではありません。

一頃、「ものづくり」の重要性に着目して
日本中の多くの理工系大学が頑張ってましたね。

そもそも理工系大学に行きたい学生は
ものが好きなので、モチベーションが上がります。
これはかなり効果が上がったのではないかと思います。

でも今は正直なところ下火になってしまっていると思います。
だって教える側がものをつくったことが無い世代に変わりつつあるから。

自分の専門じゃないことなんて教えられないじゃん
もの作ったことないんだから教えられないじゃん
と言いたいところでしょう。

とはいえ打開策はあります。

やったことがなくても
分からないことに関するアプローチ方法は
先生方は知っているはずなのですよ。
だって大学の先生って研究者ばかりなんですから。
何だか良く分からないものを明らかにする専門家ですもの。

ジャンルが多少違っても
物事の本質は同じだったりするので
何かのスペシャリストは他の色々なこともできたりしますし
自ら学ぶのも上手。

でも
学校は
特に大学は
(すでに)知っている人が
知らない人に
一方的に伝える(講義する)
そんな固定概念がある。
それが変化を邪魔します。

分からない連中が集まって
「どーすんだ、これ?」
とか言って
何でも良いからやってみて
何度も何度もやってみて
色々見えてくる

これ
本当の学びなんじゃないか
と思います。
そうやって得たものは一生忘れませんよ。

もし、やるだけやって
最終的にダメだったとしても
その中で学ぶことは大きいはず。
なので無駄なことは無いはずです。

もちろん
現状のような講義ベースの学びはあっても良いと思うのです。
でも、モチベーションベースの学びがあっても良いのではないかと思います。

いわゆる「賢い人」は
いつの時代も必要です。
でも、そんな人ばかりじゃ
どん詰まりになります。
賢い人は賢くリスクを回避しようとしますから。

問題は
何だかわかない
どうしたら良いか分からない
そんなことにトライするには
リスクを避けて通れないということです。

なので
これまた何度も言いますが
勇気ある馬鹿野郎が必要とされる時代が必ず来るはずです。

一応言っておきますが
ノータリンでもいいということではなく
必要なのはパッションですからね。

ノータリンだって…古いね(笑)