人はどう育つ?

資質とか才能とか
性格なんかもありますが…

人はそういうものをどうやって身に付けるのでしょう。
ほとんどは環境によるのでしょうね。

で、クリエイティビティとか、視野とか視座とか、考え方とか、価値観などなどが決まってくる。

そうやって身に付けた特性というか、本質的というか、根本的なものというか、そういうものは変わらないのか?

一般的には変わらないものとしてとらえられていたりもしますかね。

とすると、知識やらスキルやらを身に付けても、それをどう使うかは基本的に変わらないってこと?

まぁ、多少は変わるでしょうけど、考え方とか、価値観が変わらなければ大筋は変わらないのではないかな。
そもそも変わる必要無いですし、今持っている考え方や価値観は、なんだかんだ言って自分が望んでそうしていたりするわけですから。

この「望んで」というのがくせ者で、自分が意識的にそうしているというより、今までの環境の影響で自然とそうなっちゃってると言うべきかもしれない。

便利で安心で安全な世の中だと、何を失うのかな?というのが気になるところなのですが、どうも「考える」というプロセスをすっ飛ばすことができちゃうのだな、というのが最近の気付き。

だって、考えずに言われたことをやってれば、そこそこ普通に生きていけちゃうのだから、当然と言えば当然でしょう。

学校で勉強してれば頭使って考えているような気がしますが、それは作業的な頭の使い方であって、どうもここで言いたい「考える」とは違う。
これ、もっと分かりやすい表現ができれば良いのだけど、ちょっと思い付かないので後日に回しましょう。

さて、結局人は変わらないのか?というところなのですが、夢工房で学生を見ていると、そうも言い切れないな、という例を見ることができます。
考え方や価値観は結構変わります。

やはり「もの」と向き合うと、それを作った自身の現状が分かるからでしょうね。
そして、より良くするには知識とかスキルだけじゃ無理で、自身が変わる必要があるという壁にぶつかるわけです。

で、ジタバタやっていると、変わっちゃう。
その程度は人それぞれですが。

とはいえ、誰でも変われるのかというと、決してそうは言い切れないとも思います。
夢工房に来る連中は、ある程度の勇気を持って腹を括っているわけで、だからこそ変われるというのもあるでしょうね。
恐らく授業ではそうはいかないのではないかな。
言われたことをやるのが授業なので、そりゃそうですね。

今どうすべきか? 情報編

今後はどういう時代がやってくるのか?
そのために今はどうすべきか?
というお話しです。

こういうの考えるのって楽しくないですか?
まぁ、半ば妄想かもしれませんが、こういうことを考えておいて損は無いでしょう。

まず今回のネタ
情報
です。

我々は情報を知覚し、それを元に思考し、決定して行動します。
なので情報は大事。

受験生に限らず、学生は良く言われるでしょう
「ニュース見ろ」
って。

最近はどうなのでしょうね。

ニュース、信じるべきなの?
という意見もあるでしょう。

「ニュース」
といったら、テレビかネットでしょう。

ニュースで報道していることは事実である。
という価値観はすでに崩壊している気がします。

ニュースは誰かしらが配信しているわけで、当然ながら何をどう伝えるかという思想信条に基づく価値観で判断された内容が伝えられています。

なので当然、価値観や思想が大きく異なる国では、一つの事象に対して異なる見方をしているわけで、報道内容も異なります。
そこには「目的」がある。
そんなことを言うと、陰謀論者みたいですが、そういうのは仕方ないでしょう。

そもそもものごとには多面性があるので、価値観が異なれば一つの事象でも異なった見え方があるのは当然です。

加えて最近ではフェイクニュースの出来も良くなってきていますしね。
一体何を信じたら良いものやら。

これはニュースに限ったことではありません。
日頃の生活で、我々が手にする情報全てにおいて言えることです。

この便利なご時世で、何が危ないかというと、なんでもかんでも考え無しに情報を受け止めてしまうことだと思っています。

ニュースを始め、ネットの情報もしかり。
それなりの形態を取った情報…このブログもしかりですが、たとえば活字なんかだと無自覚に受け入れてしまう傾向があったりしませんか?

YouTubeなんかは面白いですが、単に情報を受け止めているだけ。
思考のプロセスが抜け落ちてはいないだろうか?

そういう環境に慣らされると、情報に対して考えることをしなくなります。
習慣ってそんなものです。

噂話もそうだし、先生が言ったから、政治家が言ったから…
その情報を受け取って、即反応したりして、考えるプロセスをすっ飛ばしていませんか?

情報を受け取って、感情で反応するとか、単に処理するとか、そういったことになっていませんか?
短期的に楽しんだり怒ったり落ち込んだり、言われたことに従うだけだったり。

最近思うのですよ。
便利で楽ちんな世の中って、情報を受け取って単純に反応して、結果として自分を高めることにもなっていないし、誰のためにもなっていなかったりして。
自分が得して損しないための感情的な、ヘタすれば感情すら無い、しょうもない方向に行ってはいないだろうか?と。

みんな同じじゃつまらない

「みんながやってるから、やっておこう」
確かに、そういう選択が必要な場面もある。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。
それって本当に「君」でなきゃいけないことなんだろうか?

言われたことをやって、そこそこ上手くやれたとしよう。
言われたことを上手にやるのも、時としては大事なこと。

でも、みんながやることを、みんなと同じようにやって、それで満足できる?
安心はできるかもしれないね。

人と同じであること。
これは安心をもたらす一方で、知らず知らずのうちに自分を失っていく行為でもある。
もちろん、時と場合と内容にもよるけれど。

「誰がやっても同じ」になってしまったら、もはや君がやる必要はないかもしれない。

他人がやらないことをやる。
他人がやれないことをやる。
その時に初めて、自分の輪郭がはっきりする。

違和感を恐れず、浮くことを嫌がらず
「お、これは誰もやっていないな」
と思えたなら、少なくともそれは“面白くなる予兆”だ。

それが価値の源泉なのは、間違いない。