失った文化の話 その4

そもそも私は経済とか政治は素人なので
気にしているのは手元のことです。

それは「つくる文化」が消える
ということ。

一度作ることをやめてしまったら
再度始めるのは難しいのです。

問題なのは製造だけではありません。

修理しない
料理しない
考えなくてもサービスが提案してくれる
検索しなくてもAIが答える
店に行かなくても巨大プラットフォームから買える
教育ですら教材・正解・評価が与えられる

一つ一つは便利で合理的です。

以前やってたのだから
必要なら、またやればいいだろう?

と簡単に言えることでは無いのです。
環境を失ったところからの再起動は凄く難しい。

マニュアルやら動画やら
何かしらの媒体として残せる情報から
得られるものは限定的です。

本当に価値があるのは
目に見えないノウハウだったり
「勘」と呼ばれるものだったりします。

やった人にしか分からない
経験知やら暗黙知です。

さらに、ものを作るとなると
多くの人が関わったりするわけで
そうなってくると集合知も効いてきます。

ただ、そういうことがある反面
効率を向上させるツールなどによって
「その先」に進むことができるのも事実で
そこが判断が難しいところ。

そしてマインドの話。

受け取って消費する
言われたことをやる
というルーチンに慣れた者が
果たしてモノを生み出す側に行けるのか?

これはとても難しい。

創造性や自ら決める自由は
面倒なものなのです。

創造したり自分で決めたり
という価値を生むマインドは
とかく面倒で勇気や労力が必要。

そういったものを手放して
せっかく手に入れた楽チン状態から舵を切れるのか?

その状況から脱するために
今さら面倒なことをできるのか?

効率が悪くリスクが潜む可能性がある
チャレンジができるのか?

できなければ
システムに依存して
価値を消費し続け
何も変えられない
という巨大なリスクにさらされたまま。

これはマインドとか価値観の問題で
こっちの方が根深くて深刻だと思っています。

一度やめてしまったら
元通りにはならない

チャレンジできなくなってしまったら
変えたいと思っても変えられない

変えるべきもの
守るべきもの
または
関与しないもの

これらの判別・判断はとても難しく
さらに言うなら
それらに対して
どう行動するか
または、しないのか
それこそが最も重要なところ。

今回は主に製造を主題に話を進めましたが
世の中が大きく動き
AIをはじめとした新しいものが次々と出現している現在

文化という名の「古いもの」から何を学び
どのように折り合いを付けていくのかは
難しく、興味深いところです。

こんな話をすると
とかくテクノロジーとか
人の「外」のことにフォーカスしてしまいがちです。

小手先のこともやる必要はあるでしょうけど
本当に大事なのは
それらをハンドリングする
「人づくり」
なのでしょうね。

価値はどこにあるのか その5

価値を作るスタート地点は

そのために何を
どこまで払うか
それを自分で決めること

そういうことなのだと思う。

とはいうものの
それらに対して許容できる
ボーダーラインがあるでしょう。
それは人によって様々。

何をやるかだけでなく
どこまで踏み込めるか
それが価値の大きさを決める
そんな側面もあるということです。

戦争の時代を生きてきた人達は
死へのボーダーラインを知っています。
なので
しんどいことに対しても
「死ぬわけじゃあるまい」
と言えます。

私の親や子供の頃の先生は
戦争を経験した世代です。

艦上機からの機銃掃射で
友達が撃たれて死んだ
とか
空襲で近所の人が皆死んでしまった
とか
そういう世代です。

皆が同じ方向に逃げたがめに
爆撃で皆が一度に死んでしまったとか

そういった経験を元に
ボーダーラインを決めていたり
皆と同じことをしない
という価値観を持っていたりします。

なので
リアルな感覚を元に
「生死」を基準にできます。
もちろん人にもよりますが。

私が子供の頃は
喧嘩や体罰が
さほど珍しくありませんでした。
それは私のデキが悪かったから
というのもありますが。

ともかく
「肉体的な苦痛」が身近で
それを基準とできる。
もちろん人によります。

今は、肉体的な攻撃はもちろん
言葉ですら気を遣う必要がある
そんな世の中です。

なので
「精神的な苦痛」に敏感です。
もちろんこれも人によります。

結局、人それぞれなのですが
各世代が持つ
大まかな基準があります。

そういった世代間の価値観や認識の違いが
ジェネレーションギャップです。

世代が離れれば離れるほど
相互の理解が難しくなります。

今の若い世代に
「生死を基準にものを考えろ」
と言っても難しいでしょう。

ともあれ
「怖い」
「もう無理だ」
と感じるボーダーラインは
生まれつき固定されているわけではありません。

経験によって、その線は動き
どこまで頑張れるか
というボーダーラインが決まる。

そのボーダーラインによって
同じことをやったとしても
パフォーマンスが
成果が
価値が決まってくるのです。

限界まで行ったことがなければ
自分の限界がどこにあるのかは分からない。

そして
その限界の向こう側に
他人が簡単にはつくれない価値があるのです。

…と、言うのは簡単ですが
やるとなるとこれがなかなか…。

人生は修行ですね。

でも、どうせやるなら
自ら好んでやる修行にしたいものです。

価値はどこにあるのか その4

「価値をつくる」
ということは

失敗
面倒
苦労
恐怖
悔しさ

などを感じるリスクを
「他人のため」に
どこまで背負えるか
ということでもある。

「自分のため」では
他から見たら価値は無いですから…

と思っているのですが
そんな話をすると

そのために
悲壮な覚悟や
犠牲的な行動が…

と思ってしまいませんか?

そうではありません。

悲壮な
とか
犠牲的な
なんて奴隷的な感情では
継続は難しいし
大きな価値も生み出しにくい。

しかし、なぜそう思ってしまうか?

それは日頃から
やらされる行動ばかりだから
ではないかな?

でも、そうではなくて

様々なリスクは
「自ら望むこと」
つまり
「やりたいこと」の中に
含まれているのが理想です。

好きなことでも
突き詰めていけば
必ず壁にぶつかる

そういうものですし
そういうレベルまでチャレンジしてこそ
価値になるのです。

そして
その結果
相手が喜んで
自分も喜ぶ。

そうじゃないとやってられません。

もちろん
何に対して「快」を感じるか
というのも重要なポイント。

他人が恐怖や不快感を感じているものに対しても
自分はそうでなかったりするし
むしろ楽しかったりするなら

それは独自性であり、優位性であり
価値の「入り口」です。

なのでむしろ、そういうのは
他人と異なっていた方が理想的。

やりたいことにチャレンジする
でも
いずれ壁にぶち当たる

そこで感じるのが
冒頭の
失敗
面倒
苦労
恐怖
悔しさ
であれば
それは決してネガティブなことではなく
何かを失っているわけでもありません。

そういう経験そのものが
次に価値を生み出すための
自分を作るのは確かでしょう。

それが成長であり学びです。