未来をつくっていくということ

「自分が播いた種だ」
などと言いますね。

これは、どちらかというと
ネガティブな表現ですが
ポジティブ、ネガティブ問わず言えることです。

播いた種から芽が出る
種を播けば必ず芽が出る

つまり
自分の行いによって未来が変わる
ということです。

「自分は大したことはできないから」

いいじゃないですか
大したことじゃなくても。

小さいことだって
コツコツやっていったり
皆でやっていけば
何かしら良いことに繋がっていったり
楽しくなったりしますよ。

「やることが正しいとは限らないから」
「失敗するかもしれないから」

いいじゃないですか
どんな立派な人だって
経験が十分じゃないうちは
しょうもないことをやってたりするものです。
やりながら最適化すれば良いですよ。

大事なことは
「発する側」
になっていること
そういう意識を持っていること
なのだと思います。

そうではなく
もし一方的に受け止める側になっているとしたら
それは大変残念なことです。

だって、面白くなっていかないから。

学生を見ていると
彼らの課題はもちろん
自分に対しての課題も次々に見えてきます。
それらはそんなに簡単にはできないことばかり。

でも、自分にできていないからといって
学生に課題を投げかけないわけにはいかないと思っています。
(具体的な「ああしろ、こうしろ」ではなく)

なので
「じゃぁ、あんたはできてんのか?」
と言われれば
答えは簡単で
「できてないよ」
なのです。

できていないからといって
やろうとしないのは
面白くならないし
未来に対して無責任です。

その未来は
自分の未来ではなく
皆の未来なのですね。

なので
「みんなでジタバタやっていこうぜ!」
ってことです。

端から受け止める側に立場を固定してしまっているより百倍面白いですよ。

自分は一体何者なのか

これはなかなか自分一人では分かりません。
もちろん一人で悶々とすることはできますが。

そもそもそういうのって
基本的に相対的なものでもあるから。

なので
自分から他人に向けてアウトプットして
そこから反射してくる情報を元に
他と比較して
自分は何者なのかを確認するしかない。

一人悶々とするなら
周囲を見回して比較して
確認するしかない。

実はこの
「自分は何者なのか」
というのは
長い事考え続けてきたテーマなのです。

自分自身がどういう人間なのかをもっと知りたい
ということも興味があったけど

今回言いたいのは
冒頭にあるように
自分が何者なのかというのは相対的なもの
だということ。

もし、この世に自分一人しかいなかったら
それは何者でも無いのです。
たぶん。

ちょっと分かりにくいですか?

例えば
「楽天的」
という物差しがあるとします。
まぁ、何でも良いのですが。

では、それがどの程度なのか?
と考えるとき
どうしますか?

必ず対象を思い浮かべます。
同僚だったり
友人だったり
想像上の一般的な人だったり

なので対象無しに
「自分はこうだ」
なんて言えないんですよ。

さてここからが本題

今の自分に満足がいっていないときに
一体どうしたら良いのか

まず
自分が意識できている部分と
自分が意識できていない部分がある
ということです。

最近とみに多いですね
この意識・無意識ネタ(笑)

自分で意識できている部分は
頑張って何かしらやっていれば良いのでしょうけど

無意識の部分は
自分では分からないのです。

なので「反射」を使うしかない。

誰かに向けてアウトプットして
コミュケーションを取るしかないでしょう。

相手からの反応で
自分は何者なのかを知る。

この場合
相手の選定が重要です。

仲の良い友達や
自分に対して批判的・否定的な意見を言わない者からは
十分な反射が得られないかもしれません。

あまりネガティブな部分にフォーカスしたくはないのですが
やはり誰しも意図せずに
しょうもないことをやっていたり
言っていたりするものです。

そういう点も
ためらわずに言う相手と
コミュニケーションを取らないと
自分は一体何者で
どうしたら良いかが十分に分からない。

誰しも自分の伸ばしたい部分と
変えるべき部分があるはずです。

伸ばしたい部分は比較的意識に昇ってきているから
やるだけ、頑張るだけなのですが

変えるべき部分は
そもそも、それに気付いてもいない場合がある。
それを掘り出してくれる人が必要です。
そういう出会いがあるなら
それはとても貴重なことです。

年齢を重ねると
そういうチャンスは
どんどん減っていくし
そもそも、そういう話しを受け入れにくくなります。
人にもよるでしょうけど、多くはそうなります。

なので
これは年長者にとっても問題なのかもしれません。

であれば
若いうちこそチャンスですね。

周囲に対して
自分は何者で
一体どうしたら良いのか
というのを考えないと

自分のやりたいことばかりをバリバリ伸ばして
周囲とうまく関係が作れない
なんてことになって
せっかく良いもの持ってるのに
それを使いようがない
(価値に変換できない)
なんてことになるのは目に見えてます。

また今回も偉そうなことを書いてしまいましたが
実はこういうネタって
学生を見て思ったことを
自身にも向けてみて

「自分も、まだまだだなんだよなぁ…」

なんて思いながら書いているのですよ。

向きは変えられるか?

人も組織も向いている「方向」があります。

それはゴールへの向き

意識的に明確なゴールに向かっていることもあるでしょうけど
無意識に不明確なゴールに向かっていることもある。

もちろん
良い方向に向いていると確信できるときは良いのでしょうけど
問題は、ダメになっていく方向に向いているときです。

ダメになっていく方向を向いているときに
方向転換するのは結構難しいのです。

ある方向に向かっている時点で
「ダメ」とは思っていない可能性があるし
何をもって「ダメ」とするのかというのもある。

そもそも
「ダメ」というのが無意識に望んでいることだとしたら
「ダメ」と言えるのか
というのもあるのですが。

ダメなことを望んでいることなんてあるの?
とお思いでしょうが
あります。

分かりやすいところでいうと
短期的で快楽的な欲求
とか
「楽だから」
とか
「後でいいや」
などですね。

ゴールへの通過点に
恐怖を感じるものがあったり
実行に勇気を伴うことなんかがあると
そういうのは発動しやすいですね。
ダメな方向を向いていたい理由になっちゃいます。

というわけで
現状を常に確認して対策を打つ
とかできると良いのですが
そう簡単ではありません。

一所懸命やればやるほど
集中すればするほど
視野が狭まって力強く進んでしまう
そんなこともあります。

果たして途中で方向転換できるのか?
行くところまで行っちゃわないと
向きは変わらないのではないか?

なんて思う事が良くあります。

学生のチームの面倒を見ていると
実際に起きている事を目の当たりにできるだけでなく
それ自体に関わる事ができるのは幸運です。

彼らの行動を見ていて学べるし
それを彼らにフィードバックができます。
学生と一緒に修行しているようなものですね。

そうそう
やはり評価の機会は大事なんだと思います。

何かしら現状に歯止めをかけて
確認ができれば何とかできるはず。

こんなこと書いていて
正直、自分でも耳が痛いのです。
分かっていても
なかなかできないことだから。

じゃぁ、なんでこんなことをしているかというと

分かっていても見えるようにしないと
なかなか行動に結びつかないからですよ。

いくら一所懸命考えていたって
頭の中のものなんて忘れちゃいますからね。

このブログは
そんな記事が大半です。