理想はどこにある

我欲を満たすための理想を設定するのは結構ですが、そこで終わってしまったら面白くないというか、小さいのです。
広がりが無くて先が無い。

では、何を理想とすべきか?

そんなのは人それぞれなのですが、価値ある理想とは一体どんなものかというのは結構シンプルです。

それは、他から見て価値があるかどうか。
つまり、利他的なものになっているかどうかでしょう。
簡単な言い方をするなら、自分以外にどれだけの人がハッピーになるか、です。

ものを作ると良く分かるのですが、相応の審美眼を持っているのであれば、できたものに対して客観的な評価ができます。

ですが、ビギナーにありがちなのは、自分以外からどう見えるか、という視点が無くて「単にやった」とか「こうなっちゃった」みたいなことになりがちです。
せいぜい「前よりは良いよね」くらいなもの。

たぶんそれは、理想無しでやったから。

できたものが理想に対して相対的な評価がされていないので、良いも悪いも無いのです。
というか、少なくとも良くはない。

残念ながら、理想無しでは何回やっても大して変わりません。
誰も喜ばないようなことを何回やっても面白くはなりません。

恐らく最近は、そういう傾向が強くなっているような気がします。
言われたことばかりやっているから理想が必要無いのかもしれません。

学校の成績とか学歴が、仕事ができるかどうとイコールではないってのは、そういうことでもあるのでしょうね。

じゃ、どうしたらいいのか?

個人的には、シンプルだけど勇気が要るやりかたをやるしかないと思っています。
それをやってみたら道が見えるかもしれない。
ダメなら、その時はその時ですよ。

一番危険なのは、理想を人任せにしたり、責任を他に押しつけたりってことだと思っています。
それをやると、自分が無くなっちゃいますから。

うまくいくための方法 教育ということであれば

じゃぁ結局、どうしたら良いのでしょう。
「やらせる」と「やりたくなくなる」のでしょう?

じゃぁ、やらせなけりゃいいんですよ。

やることを指示されて従うのが好みであれば、今のスタイルの学校がピッタリでしょう。
恐らく多くはそっちが好みでしょう。教わる方も教える方も。

「言われたことをやるだけなら、AIとガチンコ勝負になっちゃうぜ」
ということなのですが、多くはそうしたいのだと思います。
それは今の学校の現状を見れば分かるでしょう。
それに、言ったことをやってくれる人材は、これまで必要だったわけだし、これからも必要です。AIや機械が全部やってくれるわけでもないので。

なので、それとは別に、主体性を持って、やりたいことをひたすらやれる学校があっても良いと思います。

現状みたいに、文系とか理系とか、機械とか情報とか、分野で分けるだけではなく、やり方で分けてみても良いんじゃないかと思うのです。

本当にやりたいことがある人間と、やらされたい人間を混ぜた環境はイカンと思います。
人は楽チンな方に引っ張られますから。

やりたいことを明確化して、やると決めたなら、そこにはリソースを投入する価値はあります。

言われたことができるようになったり、言われたことを覚えるのも教育でしょうけど、言われてもいないことができるようになる教育も必要だと思います…というか、絶対に必要です。
より高次な価値はそこにあるでしょう。

商品だって同じことで、お客さんが望むものには価値がありますが、お客さんが思いもしなかったものを提案するところに、より高い価値があります。

そもそも、大学の進学率が高止まりしたのであれば、違う形態が必要な時期が来たってことだと思うのですよね。

新しい学術分野が…とか何とかと言ったところで、「やらせる」のであれば結果は大して変わらないというか、同じことの繰り返しになるだけでしょう。違いますかね。

実は、やりたいことをひたすらやれる学校は、すでにあります。
日本の学校ではないし、分野が限定的ですが。
よく調べたわけではないので、日本にもあるのかもしれませんけど。

で、皆がそういうところに行きたがるかというとそんなことはなくて、やはりいわゆる有名どころの学校に行って、やるべきことを言われて、それをやるというやり方を多くが望みます。

それが良いのだとか悪いのだという話ではなくて、恐らく世が望むバランスとはかけ離れているのが現状だろうと思うのです。

で、ついでに言うなら、こういったことは優劣の問題ではなく、単に自分の役割を自分で決めているだけの話だと思っています。

うまくいくための方法 「やる」について

今回は「やる」についてです。
ザックリで極端な話ですが、何が問題なのか考えてみました。

前回の「考える」も、「やる」のためで、「うまくいく」ってのは、結局は「やる」ことによる結果が、望みに沿ったものになるかどうかということです。

「考える」からスタートして、「やる」ことによる成果を得るまでは、色々あるわけですが、ここで肝になってくるのは、何を重視するかという優先度。プライオリティってヤツです。

なぜ「やる」のかというと、結果が欲しいからなのですが、多くの場合は、それに掛ける労力などと秤に掛けます。
そして、どのようなバランスにするかは個人の価値観によるといったところでしょう。

優先度もヘッタクレもなく、厳然として存在する時間という存在、つまり「締め切り」もあります。
これは他から課された締め切りだったり、自分で設定したタイミングだったり、はたまた人生という逃れようのない時間的な限界(残りがどれくらいあるか分からないですが、若いうちは気にしません)だったりします。

とまぁ、こんな感じで、優先度、結果と労力のバランス、時間的な限界、それら中でどのように「やる」かを決めるということになるのでしょうね。

とはいうものの、そういったことを決めていくにしても、前提としてすごく大事なことがあります。それは熱意、パッションです。望みを叶えるための原動力になるものです。

で、これもまた厄介で、現状に不満が無ければ理想なんて無いわけで…逆もしかりで、高い理想が無ければ不満も無い、ということにもなります。

平和で、安心安全で、生きることに困難や問題を感じない環境であれば、別に今のままでも良いというか、むしろ今のままが良かったりするわけで、そんな状態であれば手詰まりです。始まる前に終わっています。

学校の場合、その状態に対して「やる」というタスクを課すわけですが、そうなるとそれは「やる」ではなく、「やらされる」になります。

「やらされる」になった途端、欲しいものは「成果」から「課された負荷の低減」に変わります。
なので当然ながら、そのための行動をとります。パッションは萎みます。

とても残念なのは、このようなルーチンを繰り返してくると、それが習慣になっているので、自発的に「やる」べきものに対して、「やらされる」ときと同じ行動をとってしまうということです。それも無意識に。

結局は「やる」がうまくいかないのも環境の影響が大きいですよね。
では、それは悪い環境なのかといえば、平和で安心安全で不満が無いのだから、悪いはずは無くて、何か皮肉だなぁと思うのです。