楽になりたい…かい?

一口に「楽になりたい」とは言っても
色々ありますよね。

多くがイメージするのは
単に負荷が軽減されること
でしょう。

でも、何かしら目的を持っていたら
違ってくることもあります。

本筋から外れた余計なことにリソースを割きたくない
とかね。
集中したい
ってことですね。

まぁ、それも負荷の軽減
ってことになるのかもしれませんけどね。

そんな風に
いろんなレベルで
「楽になりたい」
と思うものですが…

負荷の経験って、そのうち必ず役に立つ時が来ます。
どうも負荷とか困難とか失敗とかを
悪いものだという風潮とか価値観とかが
蔓延している気がしてならない。

ただ、これには
できれば自ら望んだものに向き合う中での…
という前提が付きますし

その程度によっては
どうしようもない時はありますけどね。

でもまぁ
結局は
何を望むのか
が重要なのですね。

ジェネラリストで行こう

将軍になろう!
という意味ではありません。

狭い領域を深掘りする
スペシャリストの反対です。

日本の学校でお勉強していくと
大学に進学すると専攻が決まります。

つまり、ある特定分野に絞ってお勉強することになります。

工学系だと、特定の材料とかシステムとか
そういったものを選んで学ぶことになるのです。

専門家になる
これは特定の領域に力を集中できるので
成果を残しやすいというメリットがあります。

そもそも、我々の文明だって
専門家がいたから発展できたのです。

昔々、一人で食料を調達して、家を作って、衣類を作って…
と、色々やっていたら
それぞれのレベルを上げるヒマなんてありません。

でも、狩猟や農耕やものを作る専門家が現れれば
それぞれのレベルを挙げることができます。

それが仕事を専門化した専門家の存在価値です。

さて、この専門家のパフォーマンスを
さらに向上するには
どんな方法があるでしょうか。

ひとつは、より専門性を尖らせることです。
さらに領域を狭めて、さらに深く掘る。

余計なことを潔く捨ててしまえば
その分他のことができるのです。

例えば
日本古来の文化や習慣などを捨て去れば
その分、他のことに労力を割くことができます。

ゲームとか、ネットとか…

冗談はさておき

専門性を尖らせれば尖らせるほど
周辺が見えなくなったりします。

例えばの話ですが
複数の分野にまたがってコーディネートするとか
そういった能力は低下する可能性があります。

例えば、自動車に限らず
複数の構成要素からなる製品開発の現場では
専門家は沢山いるのだけど
広い範囲を見られる人
いわゆるジェネラリストが不足している
という話を聞きます。

要素は作れるけど
製品を形づくることができない
と。

そういう経験をしてこなければ
そうなるのも仕方ない気がします。

個人主義で
利己的な考え方をしていて
ゴールやビジョンを持たずに
指示に忠実に従うような経験しか無ければ
そりゃ、そうなるしかないでしょう。

と、悲観的なところで終わりにはしません。

ここまで見えたら答えが出たも同然。
やるべきことは…

それをひっくり返せば良いのです。

簡単じゃん。

電気の時代がやってくる 2024年版

一時はかなり盛り上がったEV(電気自動車)ですが、最近ではだいぶ様子が変わっていましたね。

エネルギー密度にまつわる重量の問題や、コストや充電時間の問題など、基本的なところに関しての問題は当初のまま…それはもう、100年前から変わらないわけですが、ここに来て新たな問題が露呈してきました。
…と思っています。

現状、中国は相変わらずEVでイケイケ状態のようです。
対して、欧米では一頃の盛り上がりが見られません。

そこでは何が起きているのでしょう?

以下は私の予想です。

バッテリーの原料は、いわゆる発展途上国で採掘されます。主にアフリカとか南米ですかね。
人件費が安いので当然です。
その採掘現場でも、色々問題があるようですが、ここでは細かいところに触れるのはやめましょう。

そして、採掘した原料を精製したり、それを使ってバッテリーを生産する国は限られていて、中国が最大のシェアを握っています。

欧米と中国の仲が悪くなれば、バッテリーが思うように使えなくなる可能性があります。

自動車の多くがEVにシフトした状態で、ある日突然、バッテリーの価格が急上昇したり、手に入らなくなったら、それはもう大変なことになります。

いわゆるエネルギー安保の観点から、EVシフトは妥当では無い、という判断は働いているでしょうね。

そういったこと以外にも、世の中は問題だらけなようです。
そして、我々が入手する情報は、今やフェイクなのか正しいのかすら良く分かりません。
そもそも、ひとつの事象に対して色々な見方ができるのに、特定の見方をした情報源に頼っている時点で、正しく物事を見られているのかは怪しいものです。

世の中気になることだらけなのですが、我々は雑音に惑わされることこと無く、やるべきことをやるべきなのでしょうね。

その「やるべき」というのは、「己が信じること」です。