続続・考え方が逆…の正体

前回の投稿では
自由なゴール(理想)の設定が問題だ
ということになりました。

そもそもゴール設定の経験が無いと
この「考え方が逆」シリーズで言ってきたように
手段から積み上げていって
ショボいゴールが決まってしまったり
意味不明なゴールになったり
そんなことになるのですが
その際の考え方というか
姿勢が参考になるかもしれません。

私はそれを
ザリガニのロジックと呼びます。

何かを考え行動するときに
まずは防御腺を張って
いつでも逃げられるように行動する

そういうことありませんか?

私はありましたよ。
そのうちそれが
いかに意味の無い、しょうもない考え方か
ということに気付いてやめましたが。

まずはクドクドと
ほとんど言い訳みたいな説明から始まって
「仕方なくこうする」みたいな
消去法みたいな考え方の末に
「こうなっちゃう」のような
弱腰で無難な
最低限のゴールを設定するのです。

大抵の場合それは
簡単にできそうな手段を寄せ集めて作られています

そしてそれは
やってみたところで大したメリットはありません。
自分にも他人にも。

何かうまくいかなくなりそうなら
いつでもすぐにバックで逃げられる
ザリガニのようなやり方

それが
ザリガニのロジック!
経験者だからこそ語れる
最弱のロジックです。

さて、面白い話はこれくらいにして
ゴール設定の話でしたね。

これまで何度か記事にしてきましたが
ゴールは高くデッカく設定しましょう。

じゃないと面白くなりません。
自分も他人もです。

その高くデッカいゴールを
どうやったら設定できるのでしょう。
それが問題です。

このゴール設定をするという情況に置かれたとき
たとえザリガニ野郎でも
きっと一瞬思うはずです

「これを最大限にやると
どうなるのだろう?」
って。

その後
「いやいや、いかんいかん
そんなこと考えたら大変なことになるかも」
ということになって
強烈にバックをして
可能な限り低いゴールを考えるのではないでしょうか。

だとすると
必要なのは

勇気です。

高飛び込みってありますよね。
高いところからプールに飛び込むヤツです。
あれ、やったことありますか?
初めて高いところから飛び込むのは本当に怖いです。

その際、選択肢は2つしかありません。

飛ぶか
飛ばないか
です。

ありがちなのは
飛ぶ寸前になって怖くなって
その怖さに慣れたら飛ぼう
なんて思ったりするのです。

するとどうなると思いますか?

どんどん怖くなって
ますます飛べなくなるのです。

なので、一番いいのは
怖さが増大する前に飛んじまえ!
です。

100m越えバンジージャンプも同じでした。
時間をかけると
「これは絶対に死ぬ!」
と、体が拒否反応を示すので
その前に飛ぶのです。

何か話が脱線傾向になってきましたが
ゴールの設定も似たようなものです。

できるかどうかなんて分からないけど
やるべきだと思ったらセットしろ!
です。

その結果、諦めずに取り組むと
多大な労力を払って
苦労することになるかもしれません。
でも、何も失いません。

高飛び込みと同じで
勇気と自信が得られます。

やればできるじゃん
って。

あと大事なこと

やったことがないことに対しても
「できる」
と思いましょう。

これは、やったことがないことに対して思うのだから
いわゆる「思い込み」なわけですが
それでOKです。

チャレンジなんて大抵はそんなもんです。
理論的な根拠なんて無かったりするから
そこには驚きとか感動があるわけです。

とはいえこれは
会社に入ってから困ることの一つでもあります。

やりたいことを思い付いちゃって
提案すると

「それができる裏付けはあるのか?」
とか言われちゃったりするのです。

正直なところ
できるかどうかなんてやってみないと分からないし
どうしてもやりたいんだよ!!
って話なのですが

渋々チマチマ情報集めとか資料づくりとかやっちゃうわけですけど…
結局、最後にものを言うのは理解者を増やすことだったりしますけどね。
で、みんなの「やりたい」に変えていく。

「裏付け」とか言ったって
結局人は理屈じゃ動かないんですよ。
逆に、理屈だけで動いていたら
そこには感動とか価値は無いんじゃないかと思うのですが
どうなんでしょうね。

まぁ、こういうのは会社とか職種によりけりかな。

ここまで言っておいて何ですが
やはりポジティブな心や熱意が
ゴールの設定はもちろん
その後の全てをも決めるのです。

続・考え方が逆…の正体

学校のお勉強は

目に見えるものを与えられて
それを処理していって
結果としてゴールが現れる

といったロジックだというお話をしました。

すでに設定されたゴールに対して
やっていけば
結果が現れる

ということです。

そして、やっていくためには
理論を使います。

そしてその「結果」(正解)は
すでに決められたもので
隠されているだけで
出た結果に対して
合っているか否か
という判断(評価)ができます。

ついでに言うなら
そのために使うべき理論も決まっています。

では、新たにものをつくるとき
というより
チャレンジするとき
のような表現の方が適切かもしれませんが
そういう時はどうなるか。

まずは理想の状態、ビジョンを設定します。
これがゴールです。
最初はボンヤリしていて明確ではありません。

もう一度言います。

最初にゴール設定です。

これは与えられるものではなく
自分で設定するものです。

まだやったことないことだから
最初はボンヤリしているのは当然で
明確なはずがありません。

そしてそれを明確化しながら
実現する手段を考えていく。

その手段は自由で
最初から決まっているものではありません。

もう一度言います。

手段は自由です。

ここで必要なのは
理論を用いた解法ではなく想像力だったり
時にはそれを試してみる勇気だったりします。

「これはどうなるか?」
「こうなっちゃうよね」
みたいなことばかりやってると
発想は自由になりません。

そこに理論はあるけど理想はありません。

卒業生が言っていたのですが

日本の算数の教育は
「1足す1は2」
だけど
どこぞの国では
「足し算をして5になる数字の組み合わせは?」
とやっていて
その違いは大きいですね
と。

確かにその通りですね。
決められたロジックに沿って処理するのと
手段を想像するのは大違いです。
ゴール達成のための手段は自由
これを地で行ってますから。

「これはどうなる?」のような
あらかじめ決められた答えを求めることも
確かに大事なのですが
そればかりになってしまうと
自由な発想は手に入らないでしょうね。
採点は楽だけど(笑)

さて、残る問題は
自由なゴール(理想)の設定
です。

これ、どうしたらいいでしょうね。

考え方が逆…の正体

本日の気付き

想像力が育まれない正体見たり!
というのは大げさかもしれませんが。

学校でのお勉強は
問題から、すでにある答えを導き出すものが多いわけですね。
というか、そういうのばかりです。

「これはどうなる?
といった感じです。

問題を解くってそういうことでしょう?

すでにあるもの(目に見える問い)を与えられて
やっていったらどうなる?
ですよ。

答え(ゴール)は固定されたままです。
見えない形に隠されているけど
すでに決まっています。

目に見えるものを与えられて
それを処理していって
結果としてゴールが現れる。
そしてそれが合っているか否かが評価です。

多くの場合は
すでに習った解法に従って
すでにある答えにたどり着くわけですが。

なので、そこにクリエイティビティはありません。
「全く無い」と言ったら言いすぎかもしれませんが
言っちゃっても良いくらいです。

なぜそのようなやり方をするかというと
その方が効率が良いからでしょう。

合ってるか間違ってるか
評価はそれだけで
評価したらお終いにできます。

産業の発展に伴って
均質な技術者が大量比必要な時代は
これが良かったのでしょうね。

現代も同じやり方で継続されているのは
その方が効率が良くて楽ちんだからでしょう。
教える側も教わる側も。
コミュニケーションも最低限で済みますし。

というわけで
長くなりましたが
こういうやり方の場合は
自分がどうする
という自由度はありません。

そんなことを考える能力は必要ないのです。

さてさて
ではものをつくる時にはどうなるか
それを次回お話ししましょう。

実はこれが全く逆というか
全く異なるロジックなのです。