こうすればうまくいく 20

20回目です。

やはりパッションだな
と思う今日この頃。

知識とか資格とか、それこそ学歴とか
そういったものが陳腐化していく未来において、ものを言うのはパッションでしょう。

というのも、熱と勢いで大抵のものは何とかなるから。
それこそ知識やら経験やら、そういったものはパッションという土台があれば手に入るものだからです。
どうしても欲しければ、自ら学びに行くでしょう。

外発的な動機でやらされるときとは、同じ知識や経験でもかなり違ってきます。
そういう場合、自分にとってどれだけ大事かは関係ないので、単なる暗記のようなことになる場合が多い。
そういった知識はなかなか出番がありません。
だって、どう使うか分からないから。

それに、外発的な動機の場合は「言われてやる」わけですが、そういうケースでは色々なことを同時に要求されることが多い。
学校の授業なんかは分かりやすい例でしょう。
あれもこれも単位を取らなければならない。
結果として、自分の持つパワーを分散する事になって、強みを作るのが難しくなります。

熱意を持って何かにとる組むとき、大抵は明確なゴールがあったりするので、一点集中でパワーを注ぎ込めます。
結果として強みができるのは当然でしょう。

ただ、一点集中でやっているとき、「これだけで良いのだろうか?」という不安を感じることもあるし、実際学校では難しいかもしれません。
不可能じゃないけど。

そうそう、このパッションとセットにして考えて欲しいのが「すぐやる」です。
熱量が高くても、すぐやらなければ冷めてしまってできなくなる。そして自信喪失のループにはまってしまうことがあるからです。

パッションを持ってすぐやる
ちょっと滑稽かな?と思うくらいでちょうどいい。
それを試しているうちにうまくいき始めますよ。

で、そのパッションをどう手に入れるのか?
それが分かったら苦労しませんよ。
でもまぁ、理由なんて要らないし、それこそ自由なのではないでしょうか。
他人にはどうにもできないことでもあるし。

教育のインフレが起きる

インフレ(inflation)とは、そもそもは物価上昇の意味ですが、供給過剰によって価値が下がるような場合にも使います。

今回何を言いたいかというと、少子化に伴う学校が持つ価値の変化です。

大学の数が変わらないまま少子化になるとどうなるか。
まさに今がそういった状況ですが、今はまだ「入り口」に過ぎません。

どこの学校も生き残りを賭けて定員を満たそうとします。
ある程度の学費を得られなければ学校を運営できませんから人数は重要です。

具体的に何をするかというと、入試のハードルを下げて間口を広げるのです。
そして、大学院への進学を勧める。
そうやって学生数を確保しようとします。

それはもちろん、大学のレベルの高低を問わずです。
なので、いわゆる上位の大学もハードルが下がって入りやすくなります。

学生は、有名どころや、選ばれる特徴を持った大学に集中します。
恐らく難易度の高い方へ(というか、聞こえが良い有名どころへ)シフトしていくのでしょうね。

各大学は入学した者のうち、レベルの低い者にも合わせる必要があります。
問題は、学力のみならず、モチベーションも大きく関係してくるわけで、モチベーションの低い者に合わせるということは、単純に低レベル化するということです。

さて、今や大学への進学率は50%を超えています。
それだけ多くが大学への進学を望んでいるのですが、その理由は、企業が採用において大卒で足切りをしているからでしょう。

そもそもなぜ大学に進学する価値があったかというと、大学でしか得られない知識があったからです。
だから企業は大卒を採用してきたわけです。

しかし、今や生成AIの登場で、知識のコストは急激に低下しています。
もはやほとんどタダと言っても良いくらいです。

で、今後どうなるかはアメリカの現状に現れています。
最近は、就職において大卒の資格が求められなくなってきた…と。
つまり、単なる知識にお金を使う必要が無くなってきたということです。

実をいうと、我が国の大手自動車メーカーの採用担当者が、数年前にこんな発言をしています。

「今後は学部卒と院卒の採用は重視しません」

つまり、単なる知識に金は払わない、ということです。
大卒は採用しないという意味ではありませんが。
これ、単なる噂やネットの情報ではなく、直接担当者から聞いたので間違いはありません。
知っている人は知っています。

大卒の供給過多はすでに起きていて、AIの登場で学歴の価値は低下している。
幸いにして今はまだ目に付かないけど、それらは確実に進行します。

さて、ここまで知識とか学歴にフォーカスしてきましたが、「じゃぁ、何も無くていいのか?」というと、そんなことはありません。

ここまで述べてきた「知識」は、いわゆる形式知です。
このブログでも何度も触れてきましたが、それらの価値が低下することが、ほぼ確定しています。

では従来の形式知の持つ価値に代わるのは何かというと、「経験知」とか「実践知」とか「暗黙知」と呼ばれるもの。
やらないと分からない事です。

そして、それらはもちろんAIにできないことです。
想像(創造)したりチャレンジしたり、人と人との関係によって生まれることとか、正解の無いこととか…
それらは形式知として教えることができないこと。

おお、夢工房の出番じゃないですか!

さて、ChatGPTに教育のインフレが見えるようになるのはいつか聞いてみたら、色々な方面からの情報を提示して…

+ 知識の希少性の崩壊(技術)
+ 学歴よりスキル重視の雇用構造(経済)
+ 教育制度の改革圧力(政策)
この3つの要素が交差する臨界点が2030年前後と見ています。

ですって。
さて、どうなることやら。

電気の時代…はやってきたか?

今回はクルマのネタです。

電気自動車、なかなか先が見えませんね。

一見未来のテクノロジーという気がしますが、実はBEV(バッテリーで動く純EV)も、HEV(エンジンと電動モーターのハイブリッド)も、100年以上前に誕生して絶滅するという歴史を持っています。
その時は、色々理由はあったのですが、電池を使うという基本的な原理に基づくところが大きかったのだと思います。

電池は高価で重くて大きい
簡単に言ってしまうとその辺が主な原因でしょう。

もちろんEVならではのメリットはあります。
しかし、メリットがデメリットを上回らない限り普及は難しい。

EVは本気出すと凄いパフォーマンスを発揮するのだけど、いかんせん重いのがネック。
それはバッテリーのエネルギー密度が問題なのです。
バッテリーにはあまりエネルギーが入らないので、大量の電力が必要なら、電池をたくさん搭載する必要があるわけで、そうなると大きく重くなる。

電動モーターは、低回転で大きなトルクを出せるのだけど、当然ながら重いクルマを加速させるとエネルギーは沢山必要になります。

そして高速域での巡航は大量のエネルギーが必要になるので、より大量のバッテリーを搭載する必要があって、ますます重くなる。

クルマが重くなると、運動性能は低下します。
まぁ、エネルギー消費とトレードオフすれば、それなりに加速が良かったりしますが、危険を回避する動きなんかは悪化するでしょう。

そして、重ければ各部の消耗が激しくなるのは当然で、それはクルマ本体に限ったことでは無く、道路や橋などのインフラだって同様でしょう。

というわけで、既存のエンジンで動くクルマの未来にあるのテクノロジーがEVだ、と言うのは現時点ではちょっと無理があって、用途に応じて使い分けする方向性での発展はアリだと思うのです。

EVは高速域での連続使用は苦手だけど、制御しやすいので低速での短距離移動に特化すsひて、コミュニティ内での自動運転の公共交通機関として使うなんてのはアリだと思います。

自動運転を不特定なルートで速度域が高い状態で使うと難しいでしょうけど、決まったルートを低速で使うなら難易度はかなり下がるでしょうから。
すでにそういう実験してますものね。
そういうやり方で人員とかコスト削減をしていく方向性なら現実的なのでしょうね。

あと、最近耳にするようになってきた全固体電池なんかが実用化されれば、かなり話は違ってくるのかもしれませんね。

最近では、単に環境性能とか効率ばかり言っていられなくて、いわゆるエネルー安全保障とか、政治や経済についても考えないといけないでしょうから、難しい世の中になってきましたね。

というわけで、引き続き見守っていきましょう。
さて、どうなることやら。