払った分は必ず帰ってくる

コスパとかタイパとか言いますが…
多くの場合、端的に言うと「払いたくない」「だけど欲しい」ってことでしょうか?

払うから相応の価値が欲しい
というなら健全というか常識的というか…

でも、若年層ならほぼ間違いなく
「払いたくない」「だけど欲しい」
でしょう。

何を?って、お金とか労力とか、リスク全般でしょうけど。

コスパが良いとかタイパが良いとかってのは
払いたくないけど、最大限に得たい
そういうことです。

コスパやタイパなんて言葉が登場したのは最近ですが、若い頃なんて誰しもそんなものです。
経済的な理由はもちろん、経験が無いと勇気も無かったりするし。

そう、払うのはお金だけじゃなくて、勇気や労力、リスクも含んで。

で、年長者として言っておきたいのは
やりたいこととか信じたものはやっておけ
ってことです。
もちろん結果はどうあれ、です。

結果に関しては最も気になるとことだと思います。
だって欲しいゴールのためにやるのですからね。当然でしょう。

けど、無駄な経験は無いのです。

というか、何度も言っているとおり,、無駄にするかどうかは自分次第です。
望まない結果が出たとしても、そのプロセスで得た経験は再利用できますから。

なので、お金も勇気も出し惜しみするのが最も残念な結末に繋がる可能性がある。
それは…

経験が無くて分からないこと
です。

ダメな結果が出る
というのは
これをやるとこうなる
という経験を得ているわけです。そうなることが分かった。
これはとても重要なこと。

そして
分からない
というのは恐怖につながりやすい。
するとますますやることが硬直化してしまって、現状から変化できなくなる。

変化できないというのは、成長できないということです。

托鉢の話も同様なのですが、お金も勇気も蝋両区も、払った分はいずれ必ず何かしらの形で帰ってきます。
勇気要りますけどね。

これ、年取ってから気付いても遅いだろうな、と思うことの一つです。

電動バイクの話

クルマのEV化、思ったほど進みませんね。
まぁ、電動化したところで、エネルギー源である化石燃料から走行までの最終効率は数パーセントしか変わらないし、製造に要するエネルギーや電池のリサイクル、そもそもの電池を巡る問題やらがあって、当初の思惑通りにはいかないってところでしょう。

それはそれとして、実は私、エンジンは好きだけど、別に電動モーターが嫌いなわけでもありません。
まぁ、乗って楽しければ良いかな、とも思いますし、パワーソースが何であれ、それぞれメリットはあるわけで、一概に良いだの悪いだのは言いにくいですから。

とはいえ、趣味のバイクが電動化されていったらどうなんだろうなぁ、なんてことは考えるのですよ。
最近は新しい電動バイクの話も聞かなくなってきましたけどね。
小さいのはあるようですが、それも主に国外の話ですね。

最近は、1日で1000キロ越えのツーリングなんてしてるけど、そういったことはできなくなるんだろうなぁとか、バイク自体重くなるんだろうなぁとか。

以前やったオーストラリア縦断なんてできなくなるでしょうね。
途中でマメに充電するなんてできないでしょうし。
そういうのは寂しいなぁ。

加減速の少ない高速域の連続走行では、回生充電もできないので、大した距離は走れないでしょうしね。

バイクEV化のメリットは何だろう?
静かなことや、獰猛な加速…あとは何かあるかな?
環境負荷は、実は大して変わらないと思うし。

車重もトルクも大きけりゃ、タイヤやブレーキなどの消耗品のライフは短くなるだろうし、重い乗り物は、乗るのが億劫になるんだよなぁ。
そうなったら乗車時間は減るわけで、環境負荷は低減されるとも言えるのか。それは皮肉だ。

全固体電池とか、電池の革命みたいな事が起きて、エネルギー密度が今のリチウムイオン電池の100倍くらいになれば、つまり現状の電池と同体積と重量で、100倍くらいエネルギーが突っ込めれば、エンジンと同じような使い方ができるのでしょうけどね。

充電インフラも気になる点ではあるなぁ。
大型連休など多くが充電を必要とするときに、乗用車と一緒に充電待ちをする絵を思い浮かべると…ちょっと微妙な感じです。

気に入った電動バイクがあるとして、何年も乗った末にバッテリー交換したくなったら
「あぁ、そんな古い型の電池なんて無いよ」
と言われてお終い?
まぁ、そんな頃まで生きてないだろうから気にすることでもないか。

と、今のところデメリットが多いのかなぁとか、そんなことを考えながら、技術の発展も楽しみにしてたりするのです。

やらせるからダメなのだが

かつて我が国には「一億総中流」と呼ばれる時代がありました。

これ、貧富の差が少なく、多くが特別豊かではないが、貧困でもない、という状態だったのです。
それが長いこと当たり前だったわけですが、世界的に見たらとても珍しい状態だったのですね。

そういう状態を支えていたのは、大きく二つの原因があると思っています。

一つは、高度経済成長のベースとなっていた、大量生産体制。
向上で安価で高品質な製品を大量に生産していた。

そしてもう一つは、そのための一定の知識やスキルを持った人材が大量に必要になるわけで、そういったニーズを満たすための教育システムの確立。

そんな状態が長いこと続いてきたのだけど、このやり方は人件費が安くて人口が多いのであれば成立するけど、それらのいずれか一方が維持できなければ継続は難しくなる。

で、人件費が上昇し、人口が減少した現在に至る。

もちろん低コストで大量生産のビジネスモデルはとうに成立しなくなっているのだけど、教育システムの基本形は変化せず。

言われた頃をやるという機械的な能力の重視と、考えることよりも記憶力をベースとした教育という形は変わっていません。

このシステムのトレードオフとして、尖ったヤツが少なくなるということなのですが、だからこそ貧富の差がない、均質的な社会が実現する。

興味深いのは、一億総中流であった頃よりも、むしろ今の方が人は均質化しているような気もすること。
まぁ、教育システムが同じ形で続いているならそうなるのは当然か。

問題は、この先どうしていくべきなのか。
社会の形は変わろうとしている。(すでに変わっている)
教育は未来の社会のためにあるのに、旧来の形のまま。
その形を保てば、かつての一億総中流に戻れるわけでもない。
なので、このままで良いはずは無い。

とはいえ、均質化から脱却して、個性や自発性を重視した自律的な教育に変えていくとどうなるか?

やはり二極化するのかな。
するのかもなぁ。
でも、それ以外の方法があるのだろうか?

その辺を考えるのは恐ろしくも難しくもあるのだけど、きっと避けては通れない道。
何か良い方法があるはずだ。

とか考えていると、やはり新しい時代がやってくるのは必然なのだろうな、と思うのです。
どうせなら、面白くしていかねばなりませんね。