「思い」の育て方

「思い」
どうにも掴み所が無いように感じます。

そりゃそうです。
最上位の概念だから抽象的なのです。
具体的の真反対ですからね。

でも、この掴み所の無いものが
下位概念の全てを司っているわけで

もの凄く大事なのに
もの凄く軽視されていたりします。

恐らく我が国では
「思い」より
理論とか数字とか
見えるようにできることを重視しています。
特に学校などは。

そういう、見えることに執着して
結果として
どう思うか
が現れる
という感じになっています。

特に「思い」が無くて
つまり、何のために?という
動機が不十分なまま
言われたことをやって

その結果に対して
何かを思う。

まぁ、大抵は
そんなに面白くはないと思うのですけどね

せいぜい
言われたことができて
安心するくらいかな?
ちょっとは嬉しいのかも。

ても、本質的なところが
何か違う。

「思い」を実現するために
考えて、やって
うまくいったときの喜びとは
とても比較にならない。

仮にうまくいかなくても
何が必要かが分かるし
動機の違いで成長の度合いは大きく違う。

そういうことです。

何も、具体的に何かを作らなくても
思いを自分の外にアウトプットすることで
何かしらのリアクションが帰ってくる。

それによっても成長はできますから
どんどんアウトプットして
どんどん成長しましょう。

ぶっちゃけ
思いが先か
実体が先か

と言われると
思いも無いのに
良い実体が手に入る訳は無いわけで

そんなの簡単で
当たり前なことなんですけどね。

思いをカタチに

どこかで聞いたようなセリフですね。
良く聞くキャッチコピーかもしれません。

でもこれ
実に本質的なことだと思います。

我々の身の回りのものの多くは
というか、ほとんど全ては
人の「思い」から来ているからです。

「製品」やら「商品」と呼ばれるものは
100%「思い」によるものです。

どういうことでしょう?

我々の身の回りの「もの」が作られるのは
作る人がいるからです。
当然ですね。

作るときは
知識やら技術やら
そして経験などを活かして作ります。
当然ですね。

その知識やら技術やらは
理由があって身に付けたものです。
当然ですね。

その理由の
根底のところにあるのが
「思い」です。

人は
「思い」によって考えて
その考えによって行動します。

なので
「思い」によって
どう考えるかは変わるし
それによって
どう行動するかも変わります。

我が国の教育は
これを逆方向から行って
さらに「思い」を軽視している
と思うのですが、どうでしょうか?

知識やスキルを覚えさせる
これが教育である

ヘタすれば
どう考えるか
まで指示して

相手がどう思うかは関係ない

同じようなことを
同じように覚えさせて

それらが沢山覚えられれば
良い仕事ができるはずである

みたいに見えます。

それを信じているなら
そうしてみるのも良いでしょう。

でもそこには
自分の「思い」を持っていて
それを実現したい!
という者
の居場所はありません。

「思い」によって
得られる知識の質や量は決まるし
考えのレベルも決まる
それによって
行動のレベルも決まります。

本当の価値は
その「思い」の中にある

それを我々夢工房は
カタチにして証明しなければなりません。

ただし

誰でも
というわけにはいかないので
やりたい!
という「思い」を持つ人限定です。

差別化に価値を見出すということ

つまり「違い」ということですが。

違っているだけでは価値にはならない。
そこには優位性が必要。

概念的には、「優位性」を構成するものの一つに
「違い」があり、それが必要ということ。
なので、優位性のための違いと言うべきですね。

ところが
先の見えない世の中になると
皆が不安な気持ちになるわけで

そういった状態だとリスク回避で妥協したり
同じようなものを求める傾向になります。

違っていることを考えたりするのは面倒だし
それをやったところでうまくいく保証は無いし

誰かが言う、いわゆるセオリー的なものに従っちゃうのが
面倒が無くて確実な気がしますね。

果たしてそれは
リスク回避になっているのでしょうか?
その辺を考えてみましょう。

学校では
「皆同じようにできるようになりなさい」
というやり方です。

そこで
「皆と同じじゃないと不安」
という人間を育てています。

それは学校だけに限らず
社会の傾向だったりするでしょうし
家庭でも、それを望んでいたりするかもしれません。

そこに先の見えない未来への不安がブーストを掛けます。

「いやいや、そうじゃなくて
基本的なことは、皆同じように知っていないと…」
それはそうです。
義務教育では、そういう風にやる必要があるのかもしれません。

でも、義務教育課程を過ぎてからも
そのやり方が固定されているなら
学校を出てからも同じように義務的にやるでしょう。

結局、同じ「型」しか知らなければ
同じようにしかできない。

でも
「基本的なことをしっかり理解したら
その先の応用だってできるのだから」
というのであれば同意できません。

応用というのは
単に「難易度が高い問題」ではなく
現実社会への適用です。

学問レベルの「知る」だけでなく
実際に「やる」ということです。
この二つは大違いです。

大学を出たら社会で仕事をするわけで
そのために必要な準備をする必要があります。

最初は「型」通りでも良いですが
型を破り、独自性を追求する経験も必要でしょう。

皆と同じことをしたい人間が社会に出て
ものを作る仕事をしたら
優位性が無い製品になるのは当然でしょう。

作ったものは、作った人以上にはなりませんから。

そして
優位性の無い製品をお客さんに買って欲しい
というのは無理な話です。

さてさて
あなたはどうしたいですか?

方や、先の見えない状態で
差別化、優位性を求めてチャレンジする

一方は、可能な限りリスクを排除して
周囲の流れに乗る

いずれも保証なんてありません。
自分次第ですから。