うまくいく兆し

失敗して、つまづいて、行き詰まったらどう思うか?
まぁ、うまくいかない時ですが。

恐らく普通、気持ちは下向きになるでしょう。ですよね?

でもそれが、うまくいく兆しだったりする、と思うことがあるのですが、そんなの信じられますか?

こういうことです。

うまくいかないことに遭遇しているということは…

簡単なところでは、何をすると何が起きるかが分かった、ということです。
こうするとうまく行かないことが分かったのです。
それはやらないと分からないことです。

誰でもできる簡単なところを通り抜けたということで、ここから先に進むことができれば、独自性とか優位性とか、何かしらの価値が得られるというサインかもしれません。
多くの人は、そこで諦めますから。

何が難しいか分かった!ということかもしれません。
それは一般的にとか、自分にとってとか、色々だとは思いますが。

何にせよ、それを乗り越えれば成長できるということです。
何にせよ、その「うまくいかないこと」には価値があるのです。リサイクル可能な経験です。

「向いていないからうまくいかない」のではありません。
そこで諦める人が「向いていない人」なのです。
うまくいかなくなるたびに諦めていたら、誰でもできることしかできない人になってしまって、全く面白くありません。
偉人伝を見てみましょう。
成功者達は、あなたよりもっともっと、とんでもない失敗をしています。

うまくいかないことで快感を感じられるようになったら、あなたは立派な変態で、偉人達の仲間入りをする一歩手前かもしれません。
少なくとも、普通なら諦めるところで諦めなければ、それはもう普通ではないのです。

ひっくり返すべきもの

どうしたら物事はうまくいくのだろう?

抽象的ですが、色んなことに対して共通して言えることが欲しいので、むしろ具体的でない方が良いのです。
これ、とても大事で大きなテーマです。

「どうしたら」ってのには、色々含まれます。
もちろん知識やスキルも含まれるのですが、これらの上限はメンタルとかマインドとか、心理的なものによる影響が大きいですよね。

もちろん、知識やスキルが心理面に影響を与えることもあるとは思います。
鶏が先か卵が先かのような話になってしまいますが、以下の状態に対して、「まずは知識を…」のような解決は不可能ではないかと思います。
それが可能なら、自粛下のオンライン授業で何とかなっていて、そもそもこんな問題にはなっていないはずですから。

ここまで発展してきたネット社会の便利さの弊害と、コロナ禍による自粛やオンライン化の影響だろう…なんてことを記事にしましたが、この二つの合わせ技の威力は絶大で、かなりガッチリ「受け身」で「守る」という基本姿勢が定着している感があります。

オンライン化された、動かずに画面を見ていれば良い授業は、基本的に受け身で、アクティブに新しいものを作り出すために必要な資質と全く逆なものが身に付いてしまいます。
と書いて気付きましたが、そもそも多くの授業は受け身ですね。それが強化されたと言うべきかもしれません。

それによってどういう傾向になったかというのを、パッと思い付く範囲で挙げてみましょう。もちろん、左側が理想で、右側が結果です。

積極的・消極的

外向的・内向的

未来を想像する・想像しない

視野が広い・視野が狭い

早い・遅い

オンラインの授業などで数年やって身に付いた姿勢は、そう簡単には変わらないのかもしれません。
何せ、この状態でいることは結構楽なんですよね。
なので、無意識に本能的にそっちに向かっちゃう。

本当にどうしたものかと思ってしまうのですが、これが分かっているならひっくり返すだけなのです。
言うのは簡単ですが、一体どうしたら良いものやら。

やはり本人が「こうありたい」と思わないことには、どうにもこうにもなわけですが、そのためにどうするか。
彼らを強く惹きつける力を持った何かが必要でしょう。絶対に。
無意識に、本能的に動いてしまうのを自ら妨げて、方向転換したくなるほどの力が必要です。

もちろん夢工房にはネタはあります。
それをどう使うかが大事なところでしょうね。

正解とか不正解とか 3

善とか悪とか
合っている間違えているとか
そういうのは多くの場合、それはある特定の価値観に基づくものだったりするわけで、ある人にとっての正解は、別のある人にとっては不正解だったりするわけです。

でも、善とか悪とかは決まってるだろうって?

確かに似たような道徳観とか価値観を持っている者同士ならそうかもしれませんね。これも極端な例を出すと分かりやすいですよ。

キリスト教圏の国の人と、イスラム教圏の国の人では善悪の基準すら異なります。教典を固く信じて、生活のみならず、教育や法律などの基準ともする原理主義ともなるとなおさらです。

そんな風に価値観が異なる関係では、一方にとっての常識でも、他方にとっては、「堕落した…」とか「穢れた…」とか「悪魔的」とか、そんなことになります。
これは民主主義と社会主義の国、民主国家と独裁国家でも同じようなことになるでしょう。

これらが相対した場合、互いに相手は「悪」で、自分が「善」です。
相手は間違えていて、自分が正解です。

極端ついでに誤解を恐れずに言っておくと、戦争も善悪の戦いではありません。
確かに国際法を守るとか破るとか、そういう問題は発生することがあるかもしれませんが、双方が自らの正義のために戦っていることがほとんどでしょう。
で、負けた方が「悪」ということになります。
正義が勝つなんてのは、テレビや映画のお話しです。

だいぶ脱線しましたが、こんな風に考えていくと、正解とか不正解とかが明確に決まったものばかりに囲まれている「学校」って、特殊な世界だったりするのではないかな。

ものづくりをしていて、それが新しいもの、世に無いものだったりする場合、そのイメージとかアイデアには、すでに決められた正解も不正解もありません。
原理的にとか、コスト的にとか、そういう判断基準はあるでしょうけど。

正解・不正解ベースでの訓練の成果が発揮されてしまうと、正しいイメージとか正しいアイデアを求め出すわけですが…正解が無いので、確定したりアウトプットしたりできなくなります。

そうそう、知識自体は「引き出し」として大いに有効です。が!それを使う訓練がされないままなら、引き出しは閉じたままで錆び付いて開かなくなりますよ。気をつけましょう。

今のやり方や枠組みは、そう簡単には変わらないでしょうから、夢工房は夢工房のやり方で行くしかありませんね。

「オレが正義だ!」
でやってみて、ダメだったら
「ごめんなさい」
と、やり直せば良いのです。
これをハイスピードで回して、期限内に求めるレベルになればOKでしょう。

ま、言うほど簡単じゃないですけどね。

良い子でいたいキミは真似しない方が良いです。
きっと怒られるから。