自信を持つには

「自信」とは、自分を信じること、信じられることなわけです。

これ、正解が出せるとか出せないとか、そういうことではなく、自分が「やるべき」と思ったことをやることです。
それができれば、未来を想像する際も「きっと大丈夫だ」って信じられますよね。自分を。

そんなことを聞くと、何か凄いことを想像しちゃうかもしれませんが、大したことじゃなくてもいいのですよ。
私なんか道端のゴミ拾いで訓練してますよ。
実を言うと、24時間以内に東西南北の末端に行った「1Dayチャレンジ」や、オーストラリアツーリングもそんなことの一端なのかもしれません。

「あとでやろう」というのは、「やるべき」と思ったことをやっていませんので、自信には繋がりません。
「いやいや、あとでやるんだから…」
言いたいことは分からなくも無いけど、やってはいませんよね。
なので、「あとでやる」がいくら増えたところで、それは自信には繋がりません。

よろしくないのは、自分を裏切ることです。
これは、自分が「やるべき」と思ったことをやらない状態です。

もちろん誰しもそうなってしまうことはあるでしょうが、程度問題というかマインドの問題というか…「自分は、やるべきと思ったことはやるのだ」と思って努力を継続しているかどうかってのが重要だと思います。

自分への裏切りを続けてしまうと…慣れます。
慣れたらいくらでも繰り返せるようになります。それが日常、それが習慣になりますから。
すると何が起きるでしょうね。
まぁ、ロクな事にならないのは明白でしょう。

学校教育を受けていると、自分発の「やるべき」じゃなくて、他から課された「やるべき」ばかりでしょう。
それをやっていてもある程度は自信が付くとは思いますが、やはり自分発が良いですよね。
だって面白いもん。

面白いからこそ一所懸命やれて、だからこそ成果とか価値とかを生み出せると思うのです。
大事なことなんですよ、面白いって。

動機は大事

今の自分にできていないことでも偉そうに語りますよ。
やはり理想が無いとね。

怒られたくない
余計な労力を払いたくない
傷付きたくない
失敗したくない

とか

褒められたい
楽したい
得したい
儲けたい 

書いていませんが、これらの全ての前に「自分が」と付きます。

そんな気持ちは誰でもあるでしょう。
逆に、そんな気持ちは一切無いなんてのは嘘っぽいかもしれません。
本当に一切無かったら、いわゆる聖人君子ってことなのでしょうけど。

こういった気持ちも行動の動機の一つとしてはアリかとは思います。
が、これらが動機のほとんどを占めていたらどうでしょう?

自分はともかく、相手はどう思うでしょう?
ちょっと視座を変えて、その「相手」になってみて、冒頭のような気持ちで頭がパンパンになっちゃって行動してる人を見ているとしたら…どう思いますか?

まぁ、そんなことは聞くまでも無いですね。「自己中」は嫌われます。
これを「利己的」というのですが、あまり周囲の役には立ちません。
だって、自分のためのことばかり考えているのだから当然です。

では「自己中」ではなくて、「相手のために」が動機だったらどうでしょう?
そういうのを「利他的」と言います。

相手のためになることは、当然ながら相手からしたら価値があるので、感謝されます。たぶん。
価値を手渡したら、価値のお返しが来るかもしれませんね。
これ、仕事の本質というか、社会活動の基本というか、そういうものだと思います。

でも、そういうのを分かっていても、なかなか理想的な動機で実践できなかったりします。

なぜ?
たぶん、相手のために行動したところで、それが回りまわって自分の利益となる確証が無いから。損しちゃうかもしれないから。
そんな風に、自分の欲得ベースで判断していたりします。

欲得100%では、考えるまでもなくうまくいきそうも無いので、利己的と利他的の間の、限りなく利己的に近く、なおかつ相手に受け入れられそうな着地点を探すことになったりします。

そんな状態で、ユラユラフラフラしながら、「どうしたらうまくいくのだろうか?」なんて悩んでみたりします。

私もそんな風に考えていましたからよく分かります。
今でも完全に脱したわけでは無く、修行中です。

その辺は、利他の方に振り切っちゃえばきっと相手は喜ぶでしょう。
難しいでしょうけど。

で、こんな話をすると、まるで奴隷的で自分が無いような捉え方をしちゃうかもしれませんが、それではダメです。

この「利他的」の前提として、「自分の好きなことや、得意なことで」が付かないと、力を発揮できませんし、持続できません。

それと、もうひとつ。
利己的な動機って、諦めるのが簡単なんですよ。
自分だけの問題だから、いつやめてもいい。
すぐやめちゃうものって、大きな価値にはなりませんよね。

継続は、価値を形作る重要な構成要素の一つです。
そこも大事なところです。

こうすればうまくいく 7

成果を出すための方法を考えてみよう。

学校だと、色々やって、色々できないといけないわけです。
そうしないと進級できなかったり卒業できなかったりします。
なので、今回お話しする内容をストイックに実行すると残念なことになる可能性があることをあらかじめ言っておきます。

とか言ってるあたりで、すでに想像ついちゃうとは思いますが…
そうです。人の力には限界があるわけで、それを集中させたらどうなの?ということです。

もちろん、色々できちゃう人は色々やっちゃって良いとは思いますが、ピンポイントで何かに特化すれば成果を上げやすいよね、ということです。

と、言うのは簡単なのですが、どうも我が国それをやっちゃいけないって思っているというか、そう感じさせる空気感がありますよね。

と、そこで思うのは、皆色々やりすぎじゃないのか?ということ。
学校の科目だってそうでしょう。
本当にそんなに色々やる必要あるの?そして、その色々を、そんなにできるようにならないといけないの?と思うこともしばしば。

いや、色々やっても良いのですが、そのスタイルそのものに選択肢がないのは少々残念な気もします。

結局、リソースを集中させたくても、環境が許さないってのがあるんじゃないかな。
そして、色々できなければいけないという環境では、そのうち嫌になっちゃうのもわからなくもないわけで、その結果、何かに特化した世読みを持つ人が少なくなったりするのだろうなぁ、なんて思うのです。

自由なようで自由じゃなかったり、と思うこともあるのですが、でも広い目で見れば、実はかなり自由度が高い部分も多かったりするのです。

実際のところ、先進各国で教育に関する自由度は、我が国はかなり高いレベルにあると思うのです。
これはどういうことを言っているかというと、所得や地域の格差によって受けられる教育レベルの格差は格段に小さいはずです。
分かりやすいところでは、夢工房でチャレンジしているFormula SAEですが、諸外国では誰でもできるわけではなかったりしますからね。

さて、恐らく今後の我が国は、上がったり下がったりする中で、きっと転換点を迎えることになるでしょう。
そんな中でも文化や伝統をはじめとして、強みとして持ち続けるべきものがあるわけで、その辺をどうするのかといったところが、難しくもあり面白くもあるということになるのでしょう。

なんか今回はまとまりのない内容となってしまいましたが、結局のところ、今あるリソースを活かして、いかにその中で自ら選択して決していくか、というのがカギなのだろうな、と思った次第です。